ハンセン病問題の軌跡と展望 - 差別禁止規定の可能性(5)
第2章 国際社会におけるハンセン病
第3節 諸外国におけるハンセン病政策
(3)韓国でのハンセン病政策
韓国は、第二次世界大戦の前と後で実質的に政策をとっていた国家が違う国である。つまり、日本の統治下において行われたハンセン病政策と韓国としての独自政策を求められた時期とに分けられる。
韓国でのハンセン病について述べていく。韓国では、ハンセン病を「ムンデゥン病」「天刑病」と呼んでいた。「ムンデゥン病」という表現は、症状の醜さを表現している差別的な表現である[421]。ハンセン病患者や回復者には、「患者」「病歴者」「陽性患者」「陰性患者」という呼称が用いられた。現在の韓国で最も用いられている言葉は「ハンセン人」である。この言葉は、「ハンセン人被害事件法」[422]第2条1項に、「ハンセン病にかかった者、又はハンセン病を患い、治療が終結した者」と定義されている。この「ハンセン人」という言葉は、ハンセン病に関する差別撤廃を目指す人権運動をきっかけに登場し、ハンセン病患者・回復者だけでなく、その家族を含めて使われることが多い言葉である[423]。
まず、日本統治下の韓国においてである。日本が韓国を併合し、朝鮮総督府を設置して植民地化したのは、1910年である。そのため、戦前の韓国において政策を実行していたのは日本であった。よって、韓国におけるハンセン病政策にも日本の政策の特徴を見ることができる。
1910年当時の韓国では、アメリカ人宣教師が経営する光州、釜山(プサン)などの療養所にハンセン病患者が集まっていた。しかし、これらの療養所は小規模であったために全員の収容ができず、収容されない患者らは療養所の周辺に集団で放浪していた[424]。
- 1 -そこで、日本が患者を隔離するために用いたのが、韓国の代表的なハンセン病関連施設とされる「小鹿島(ソロクト)病院」[425]である。小鹿島病院は、日本の植民地時代に開設され、日本国内のハンセン病療養所と同様の運営がされていた。1915年、朝鮮総督府は、ハンセン病患者の隔離施設として小鹿島を選定し、翌年1916年に、朝鮮総督府令第7条に基づいて病院を設置する[426]。ここから、日本統治下の韓国でハンセン病患者統制が始まる。
小鹿島病院でのハンセン病政策は、外部と遮断された小鹿島という「離島」に隔離、島外への移動を厳しく制限し、暴行や脅迫、懲罰、監禁、強制労働、強制断種[427]および人工妊娠中絶を行う[428]という、まさしく人権無視の「日本型隔離」そのものだった。さらに、明治政府は「学術研究」と称して患者の人体を解剖し、人体標本を作成し保管していた[429]。1936年頃から小鹿島病院では、それまでの厳格な男女別居を変更して夫婦同居が可能になるが、その条件として断種が求められている[430]。
1935年には、日本の癩予防法を模倣して、「朝鮮癩予防令」「朝鮮癩予防令施行規則」が制定される。この「朝鮮癩予防令」は、ハンセン病患者の強制収容(自宅療養患者も含む)、消毒、予防方法、その他ハンセン病予防上必要な事項を規定する[431]とともに、小鹿島病院への隔離を強化し、療養所長に懲戒検束権を与えている[432]。この「朝鮮癩予防令」は韓国解放後もしばらく存続し、1954年に廃止されている。廃止後は、「伝染病予防法」を新たに制定し、ハンセン病を第三種伝染病に指定している[433]。しかし、ハンセン病に対しては、他の第三種伝染病とは異なる対応がとられ、強制隔離を維持、療養所長に秩序管理のための権限が与えられた[434]。
では、日本統治下における小鹿島病院での入所者の暮らしはどのようなものだったのだろうか。ハンセン病問題検証委員会がまとめている報告書に、小鹿島病院の入所者2名の聞き取りがあるので引用したい[435]。
- 2 -最初の1人は、1921年生まれの男性(2005年聞き取り当時84歳)である。この男性は、15歳のときにハンセン病を発症し、1941年に隔離収容されている。男性のもとに巡査が来て「小鹿島に行けば病気は治る」「食料も十分にある」と言われて、隔離に応じている。しかし、食料は乏しく、毎日、星を見て労働に出かけ、星を見て帰るという生活であった。労働の内容は、レンガ作り、たきぎ集め、叺(かます) [436]作りなどで、看護長は「患者10人より松の木1本の方が大事」といって憚らず、この強制労働で傷を負っても、働かされ続け、それが原因で、男性は手の指10本と両足を失っている。食事の量は、男性ひとりが一日、米2合とサクラ麦で、それを3回に分けて食べた。また、キリスト教徒だったので神社参拝を拒否すると、事務所に呼び出され、何回も殴られ、気を失うと水をかけられ、また殴られ、監禁室に入れられた。その後、懲罰として断種されている。監禁室では食事は握り飯が朝・夕の2回与えられるだけで、凍死する者もいたという。
2人目は、1934年生まれの女性(2005年聞き取り当時71歳)である。この女性は、1944年に隔離収容されている。女性は、収容当時10歳であったが、レンガ作り、叺作り、石運びなどの強制労働を課せられた。午前中は学校に行ったが、学校でも松脂採集をさせられたそうだ。こうした強制労働により、手足が凍傷となり、それが原因で、女性は手の指10本と両足を失っている。食事は、女性ひとりが一日、米 1.5合、子どもは米1合であった。創氏改名をさせられ、毎月1回、1日に神社参拝、15日には園長の銅像への参拝を強制されたという。
この2人の証言からは、小鹿島病院での隔離の実態がはっきりと分かる。日本国内よりも過酷な実態であると言えるだろう。日本統治下の韓国におけるハンセン病政策は、日本国内において行われていた「日本型隔離」の延長線上にあり、韓国のハンセン病患者も日本と同様の人権侵害を受けた。加えて、韓国では、韓国人に対する差別意識が上乗せされ、日本国内よりも過酷な実態だったことが想像される。最初の男性の聞き取りで、「患者10人より松の木1本の方が大事」と言われていること、また、懲罰として断種が行われていることなどは、韓国人への差別意識の表れだろう。日本統治下の韓国では、ハンセン病に起因する差別と韓国人に対する差別という「二重の差別」が発生していたと言える。
- 3 -次に日本からの解放後の韓国においてである。日本から解放された後に樹立した韓国政府は、小鹿島病院などの療養所で男女を厳格に分離して収容する「日本型隔離」政策を維持した。1949年からは、陰性患者に限り、断種手術を受けることを条件に夫婦同居を許可している。このような政策は1990年代まで維持され、夫婦同居のために断種手術が実質的に強制されていた。また、小鹿島病院内での妊娠と出産を禁止する政策も1990年代まで維持される。もしも女性が妊娠した場合には、規律違反として厳しく批判され、堕胎しない場合には退院を強制された[437]。長らく続く病院生活によって、社会とのつながりも無かった(失っていた)ことが容易に予想され、退院の強制は「路頭に迷う」ことを意味していた。
その他、韓国では、1958年から「患者登録事業」が開始されている。その後、「中央登録制度」と名前を変え、保健福祉部傘下の疾病管理本部により患者管理を依頼されたハンセン福祉協会がコンピュータシステムを通して集中管理している[438]。この中央登録制度により、韓国では全てのハンセン病患者がハンセン福祉協会に登録されている[439]。
また、韓国の「伝染病予防法」は1963年に改正され、感染の恐れのある者への隔離規定を残しつつ[440]、全てのハンセン病患者に対する強制隔離は廃止されている[441]。その点、日本では1996年の「らい予防法」廃止に至るまで強制隔離が継続されていたが、日本の影響を色濃く受けていた韓国では、日本に先だって1963年に強制隔離からの転換が図られたと言えるだろう。1963年からは、労働可能なハンセン病患者らの自立を目的として、韓国政府が土地と家屋を提供し、集団定着させる「定着村事業」を推進していく[442]。定着村事業は、1947年から柳駿[443]などの一部の医学者により「希望の村運動」として行われてはいたが、1950年からの朝鮮戦争の影響で頓挫している[444]。それを韓国政府が復活させた形である。
坂本光德は、韓国における定着村事業推進の背景として、『(1)朝鮮戦争後の混乱とそこからの復興・再建という状況が目指されるなか、国家による絶対隔離政策の維持が財政的に困難であったこと、(2)当時の問題となっていた「浮浪患者」への対応と、自活可能な病者の経済的自立を可能にするための方針であった』[445]と指摘している。つまりは、朝鮮戦争からの経済復興を成し遂げなければ国際社会における一定の地位が確立できなかった韓国にとって、ハンセン病患者に対する隔離政策に税金を投入するよりも、自活可能なハンセン病患者を定着村の中で労働可能にすることで経済効率を求めたということである。
- 4 -定着村事業は一定の評価を得ていくが、定着村自体が「特殊地域」として社会に認識されてしまい、それまでの療養所と同じく一般人の出入りがほとんど無くなってしまう。この点においては、日本国内の13の国立療養所も周辺住民からは「特殊地域」として認識されていたのだろう。定着村に対する「特殊地域」としての誤認は、韓国における新たなハンセン病問題として表出し、周辺地域との交流が進んだ定着村と反対に周辺地域から隔絶されていく定着村に分かれていく[446]。
韓国でのハンセン病当事者の名誉回復と補償について述べたい。
日本では2001年の熊本地裁判決を受けて、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律(ハンセン病補償法)」が制定されている。ハンセン病補償法は、成立当初、日本国内のハンセン病療養所入所者のみを対象としており、日本統治時代の小鹿島病院などは対象となっていなかった。日本政府は、日本統治時代に作られた日本国外の施設について、ハンセン病補償法の定める療養所には該当しないとして、小鹿島病院などの入所者からの補償請求を棄却している[447]。棄却された請求者は不支給決定の取り消しを求めて、小鹿島病院の原告が2004年8月に東京地方裁判所に提訴している。翌2005年10月25日、東京地裁は小鹿島病院の原告の請求を棄却している。請求棄却を受けて原告は東京高等裁判所に控訴している。日韓の弁護団と市民団体の運動の結果、2006年2月10日、日本統治時代の療養所からの補償請求も認めるべく「ハンセン病補償法」が改正される[448]。改正で日本統治時代の入所者も対象となり補償金を受け取ることができている。
このことは韓国国内のハンセン病当事者の人権意識を高めることになった。日本統治時代の療養所入所者に対して補償が認められたことを受けて、韓国ではハンセン病当事者の名誉回復の道を模索していく。そして、2007年に「ハンセン人被害事件の真相究明と被害者の生活支援等に関する法律(ハンセン人特別法)[449]」が制定される。
- 5 -ハンセン人特別法は、「ハンセン人被害事件に関する真相を把握し、これらの事件の被害者に対する支援を行うことで、人権の向上および生活安定を企てる」(第1条)ことを目的とする法律である[450]。ハンセン人特別法が対象とする被害事件の範囲(第2条)を「(1)小鹿島病院または伝染病予防法で定める感染症の予防施設に隔離収容された者(ハンセン人入所者)が、1945年8月 16日から1963年2月8日まで収容施設に隔離収容されて暴行、不当な監禁や本人の同意なく断種手術をされた事件」「(2)1945年8月25日を前後して小鹿島病院従業員の暴力でハンセン病患者らが死亡及び行方不明または負傷した事件」「(3)1962年7月10日から1964年7月25日まで高(コ)興(フン)郡(ぐん)ドヤン面ボンアム半島と豊穣半島を結ぶ干拓工事に関連してハンセン病患者らが強制労働をされた事件」「(4)他ハンセン人被害事件真相究明委員会で審議決定した事件」の4つに規定している[451]。この事件範囲を見るに、韓国で強制隔離政策からの政策転換が図られた1963年の前後までを対象の範囲としているようだ。さらに、第5条で「被害者とその遺族はハンセン人被害事件の被害者とその遺族という理由でいかなる不利益や不当な処遇も受けない」と不利益処遇禁止を規定している[452]。
ハンセン人特別法は、ハンセン人被害事件真相究明委員会の設置[453]や法律が定める被害事件の被害者に対して医療支援、生活支援をすること[454]を基本としている。加えて、被害者の慰霊のための記念館などを設立すること[455]で人権教育の推進も図ろうとしている。しかしながら、ハンセン人特別法には救済の限界も指摘されている。対象となる範囲が1964年7月25日以前の事件を対象としていることや女性への人工妊娠中絶については規定が無いことなどである[456]。前述したように、韓国政府も「日本型隔離」政策を維持し、夫婦同居のための断種手術や小鹿島病院内での妊娠と出産を禁止する政策が1990年代まで維持されていたことを考えると、法律の対象が不十分であると言わざるを得ないだろう。
この「ハンセン人特別法」であるが、2015年に一部改正される。生活支援金の給付が基礎生活受給者と次上位階層のみに生活支援金が給付されており、被害者の約15%が生活支援金の対象から除外されているという状態が発覚する。また、実際に支給される生活支援金も毎月15万ウォン(2020年12月27日19時30分のレートで約1万4113円)に過ぎず、生活支援金だけで生活の安定は到底できなかった。被害者の生活安定を図るという目的と合致していないとされたためである。
- 6 -表10 ハンセン人生活実態(2011年)
全体 | 基礎生活受給者 | 次上位階層 | その他 | |
人数 | 1万3039人 | 9636人 | 1343人 | 2060人 |
割合 | 100% | 73.90% | 10.30% | 15.80% |
そこで、生活支援金を「慰労支援金」と名前を変え、所得や財産に関係なく被害者認定された当事者全てに支援金を出すことで目的を達成しようとした[457]。それに伴い、名称を「ハンセン人被害事件の真相究明及び被害者生活支援などに関する法律」から「ハンセン人被害事件の真相究明及び被害者支援などに関する法律」と変更し、法律名から「生活」の二文字を無くした。
韓国では、日本のように国立療養所での生活を今まで通り継続するのではなく、「定着村」というハンセン病患者を自由にする機会を新たに提供するという政策をとった。しかし、定着村による「自由」は周囲の住民との対立を生むことにもつながった。ハンセン病患者の「自立」した集団生活は、定着村という「療養所」に緩やかに隔離することを結果的に意味した。この定着村事業について、新田さやか・三本松政之(2017)は「政治的保護と恩恵の構造」があったとしている。国は、患者たちに医療サービスと土地を提供し、援助物資に基づいた畜産業の技術と市場を提供した一方で、社会的運動(日本での全患協運動)を防止し、政治的な支持を得た[458]。韓国における定着村事業は「受動的事業」として成立した。また、中央登録事業も国が患者を管理するために用いられている。
日本のハンセン病政策は、国とハンセン病当事者が対立する構造であった。日本での全患協運動をはじめとして、「らい予防法」の改正や療養所の生活改善など人権回復をめぐって対立した。一方、韓国では、全てのハンセン病当事者が登録事業によって国家の管理下に置かれた結果、隔離政策が転換された後も国家の「恩恵」によって「保護」された。
- 7 -2007年のハンセン特別法での記念事業の特別計画には、『過去ハンセン病患者のための社会的な待遇や嫌悪感は、現在も障害者、貧困者、高齢者、外国人労働者及び朝鮮族も同じパターンで繰り返されている。このような状況の原因の根本にあるものは、知らないことや、理解が不足していることである。したがって、社会的統合の一環としてハンセン記念事業の必要性が提起される』[459]とある。この文章は、どのような国においても無知や偏見による差別が起きていることを示唆している。日本でも無知や偏見による差別事案が2000年代になっても生じた。韓国でも同様に差別事案が生じているのではないか。無知や偏見をなくすためには社会的事業、特に教育と啓発活動が必要である。しかし、一定以上の年齢幅のある人々に形成されている差別・偏見意識を除去するには、さらに強力な事業が必要なのではないか。
第4節 日本と諸外国におけるハンセン病政策の比較
第2章では、第2節と第3節で日本と外国(アメリカ、ノルウェー、韓国)のハンセン病政策についてみてきた。第4節では、これら4国の政策について表を作成して比較していきたいと思う。
表11 日本と諸外国におけるハンセン病政策の比較
日本 | アメリカ | ノルウェー | 韓国 | |||
ハワイ | アメリカ本土 | 日本統治下 | 独立後 | |||
隔離の種類 | 「終生の」 絶対隔離 | 絶対隔離 | 相対隔離 | 絶対隔離 | 絶対隔離 | |
公的な隔離が 開始 された 時期 | 1907年 | 1865年 | 1894年 | 1849年 | 1916年 | 日本型 隔離政策 の特徴を 維持 |
隔離の 法的 根拠 | 「癩予防ニ関スル件」(1907)「癩予防法」(1931) 「らい予防法」(1953) | 「1865年らい蔓延防止のための条例 (ハンセン病蔓延予防法)」 「1915年ハワイ改正法第1092条」 「ハワイ法」(1925年) | 州単位の予防法 (1894年ルイジアナ州など) 「1922年運用規則」 | 1849年Lungen-garden(ハンセン病病院)の開設に伴う法律や条例が存在したか? 「1877年法」「1885年法」 | 朝鮮総督府令第7条(1916年) 「朝鮮癩予防令」(1935年) | 「朝鮮癩予防令」を1954年まで維持 「伝染病予防法」(1954年)「改正伝染病予防法」(1963年) | |
相対 隔離へ 転換期 | 1996年 らい予防法 廃止後か | 1915年 パロール・システムの運用開始時期か | 1922年運用規則の退所規定 1943年 プロミン発見 | なし | なし | 1963年 | |
療養所からの退所 規定 | なし | あり | あり | あり | なし | 不明 | |
優生 手術の 有無 | あり | あり | 不明 | なし | あり | あり | |
手術実施 期間 | 1915年~ 1996年 | 開始時期 終了時期不明 | 不明 | なし | 1915年~ 1945年 | 1949年~ 1990年代 | |
懲戒 検束 規定 | あり | 不明 | 不明 | なし | あり | あり |
この表に従って各国の政策を比較すると、日本統治時代の影響が強かった韓国においても、強制隔離政策は1963年に終了している。また、韓国では、1990年代まで優生手術の実施が維持されているが、日本型隔離政策を維持したために行われたものだった。
アメリカでは、ハワイと本土の両方で難易度に差はあれども、療養所からの退所規定が存在した。療養所からの退所規定である「パロール・システム」をアメリカでの相対隔離への転換点と考えると、ハワイでは1915年から相対隔離へ転換し始めていたと考えられる。アメリカ本土においては、1922年に公布された運用規則[460]には、退所規定が存在していた。
ノルウェーでは、ハンセン病政策の初期から相対隔離政策を行っていた。しかも、ノルウェーでは、「非人道的」な結婚禁止の政策は、議会で却下されており、政策的に「人道的」と言えるようなものだった。
対して日本はどうであったか。戦前には「増えすぎた子どもの抑制」として、戦後には「優生保護法」を法的根拠に優生手術を実施してきた。また、取り上げた4か国を比較すると、療養所からの退所規定が無かったのも日本だけだったようだ。さらに、相対隔離への転換点を考えると、外国よりもさらに遅れる1996年の「らい予防法」廃止であることが分かるだろう。相対隔離の道へ行きつつあったアメリカでは、1915年や1922年に、確実に1943年のプロミン発見以降は相対隔離となっている。日本型隔離の影響が強い韓国でも1963年からは相対隔離へと転換している。
日本が、アメリカ・韓国・ノルウェーの3か国より遅れた原因は何であるのか。他国との比較をしてみて、どの国にもハンセン病に対する差別・偏見の意識は存在したことは分かってきた。
- 10 -では、日本と違う点はどこか。それは、「ハンセン病対策が科学的根拠に基づいていたかどうか」ではないだろうか。日本の政策の端緒は、光田健輔が帝国議会に進言したからであり、以降も度々「光田イズム」が姿を見せてきた。光田イズムは、患者の為ではなく「ハンセン病の恐怖」を増幅し、感染力の強さを強調するというものである。また、政府上層は「国家の体面」という理由でハンセン病対策に取り組んだ。外国人の内地雑居が進む中で、外国と比べられ「遅れている」と思われることを良しとはしなかった流れがある。ほかにも理由は挙げられるだろうが、どちらにしても「科学的根拠」は見受けられない。当時でも「国際らい会議」などで、ノルウェーのような隔離方法が良いことなどが提案されている。その後も、らい菌の感染力が弱いことなどが国際社会などで確認される。しかしながら、日本は、日本が掲げる政策の転換を全く行わなかったばかりか、世界の潮流と逆行することを行い始める。
もちろん「宗教観が違う」という答えも挙げられる。外務省のデータ[461]によると、令和2年度版であるが、韓国は「仏教(約762万人)、プロテスタント(約968万人)、カトリック(約389万人)等」、アメリカは「主にキリスト教」、ノルウェーは「福音ルーテル派(キリスト教)が大多数」である。対して、日本は仏教や神道がほとんどを占めている。しかしながら、「宗教観とハンセン病」について論じている先行研究は少ないため確実なことを言うことはできないように思われる。
- 11 -- HAN Seok-Jong:前掲5、p.4。↩︎
- 2007年に「ハンセン人被害事件の真相究明及び被害者生活支援などに関する法律」が成立し、2015年12月に「ハンセン人被害事件の真相究明及び被害者支援などに関する法律」(2016年3月30日施行、法律第13666号)と改正して名称変更がされている。↩︎
- 権南希「ハンセン病と人権 - 国際社会における差別是正の動向と韓国における司法的救済」(エトランデュテ2巻、2018)p.181。↩︎
- ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.705。↩︎
- 小鹿島病院は、時代や政策によって、小鹿島慈恵園、小鹿島更生園、中央癩療養所、国立癩病院など、度々名称変更されている。本論文では、名称を「小鹿島病院」と統一する。↩︎
- 小鹿島選定の端緒となったのは、当時、朝鮮総督府で衛生顧問をしていた山根正次による朝鮮十道の実態調査である。その報告を基に、日本は「癩患者取締ニ関スル件」(1913年)を出す。そこには、ハンセン病患者がすでに3000人を数えていたが、全員を収容する施設がないため、有産者の患者は自宅に療養させ、無資産の患者は救護して、感染の機会を少なくする必要があるという方針が記されている。その後、山根は韓国において最も緊急に対策を行うことを説いていることからも、山根は植民地政策において医療衛生政策は最急務であると認識していた。そして、各地を放浪するハンセン病患者を一定の場所に収容する計画が立ち上がり、小鹿島が選ばれる。↩︎
- 1933年、小鹿島病院を訪問した光田健輔は大邱日報の記者会見で「内地の療養所で輸精管切断を実施中であるが、成績良好で朝鮮でも施行すべき」と、韓国での断種について提起している。↩︎
- 小鹿島病院においても男女問題による風紀の乱れはあったが、「隔離収容ノ意義ヲ没却スルニ至ルベキヲ以テ予メ本人ノ申出ニ依リ断種法ヲ行ヒタル」ことを条件に夫婦同居の許可を公布している。夫婦同居により「患者ノ気分非常ニ緩和サレ島内生活ノ安定ニ大ナル効果ヲモタラス」ことが目的だった。ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.714およびHAN Seok-Jong:前掲5、p.5。↩︎
- 坂本光德「韓国のハンセン病患者らに対する支援政策に関する一考察―ハンセン特別法の成立過程とその展開―」(四天王寺大学大学院研究論集14号、2020)pp.25 - 26。↩︎ - 12 -
- HAN Seok-Jong:前掲5、p.6。↩︎
- ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.712。↩︎
- 新田さやか・三本松政之「韓国のハンセン病者と定着村事業の展開過程にみる人権をめぐる課題」(立教大学コミュニティ福祉学部紀要第19号、2017)p.52。↩︎
- 第三種伝染病として規定されたことは、「伝染力の低い伝染病として規定された」ことを意味する。同上、p.52および坂本:前掲429、p.25。↩︎
- 権南:前掲423、p.191。↩︎
- ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.717。↩︎
- 叺(かます)。蒲簀とも。わらむしろを二つ折りにし、縁を縫いとじた袋。穀類・塩・石炭・肥料などの貯蔵・運搬に用いる。↩︎
- HAN Seok-Jong:前掲5、p.6。↩︎
- 新田・三本松:前掲432、p.52。↩︎
- 同上、p.52。↩︎
- ハンセン病患者の内、改正伝染病予防法第16条では「自家治療をすることで他者に伝染させる恐れがある者」または「浮浪・乞食などで他人に伝染させる恐れがある者」を強制隔離の対象とした。権南:前掲423、p.191。↩︎
- 新田・三本松:前掲432、p.52。↩︎
- 坂本:前掲429、p.26。↩︎
- 柳駿。1952年に日本の九州大学でらい菌分野の研究により医学博士を、1955年にアメリカのUCLA大学でハンセン病因論研究により博士学位(PH.D.)を取得している。らい菌を含む抗酸菌の研究やハンセン病治療薬の開発などに研究を行った。研究以外にもハンセン病に関する社会事業にも取り組み、1947年に「大韓癩協会」を設立している。↩︎
- 犀川・森・石井:前掲21、pp.335-336。↩︎
- 坂本:前掲429、p.26。↩︎
- 犀川・森・石井:前掲21、pp.337-338。↩︎
- 権南:前掲423、p.193。↩︎
- 同上、p.193。↩︎ - 13 -
- 法律上の略称としては「ハンセン人事件法」であるが、本論文では、坂本(2020)にならい「ハンセン人特別法」と省略する。坂本(2020)によれば、韓国国内での報道などは「ハンセン人特別法」と呼ぶ場合が多いようである。↩︎
- 権南:前掲423、p.194。↩︎
- 坂本:前掲429、p.28。↩︎
- 同上、p.28。↩︎
- 第3条 ハンセン人被害事件の真相を究明して、この法律に基づく被害者の調査および決定に関する事項を審議および決定するために、国務総理所属下にハンセン人被害事件真相究明委員会を置く。↩︎
- 第9条 被害者に対して医療支援金および生活支援金を支給することができるようにするが、これらの助成金の支給を受ける権利は、譲渡または担保に提供したり、差し押さえたりすることができないようにする。またその支給の範囲と金額の算定と支払い方法などは、大統領令で定めるようにする。↩︎
- 第10条 国及び地方自治団体は、被害者のためにハンセン人住宅福祉施設やハンセン人医療福祉施設を設置することができるようにする。↩︎
- 権南希:前掲423、p.194。↩︎
- 坂本:前掲429、pp.32-33。↩︎
- 新田・三本松:前掲432、p.58。↩︎
- 坂本:前掲429、p.33。↩︎
- 英語名称「Regulations governing the care of lepers : Regulations for the government of leprosaria and for the apprehension , detention , treatment , and release of lepers.」↩︎
- 外務省「大韓民国(https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/korea/data.html#section1)」および外務省「アメリカ合衆国(https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/data.html#section1)」および外務省「ノルウェー王国(https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/norway/data.html#section1)」。↩︎