ハンセン病問題の軌跡と展望 - 差別禁止規定の可能性(3)

第2章 国際社会におけるハンセン病

第1節 相対隔離政策と絶対隔離政策の違い

 ハンセン病は感染症である。つまりは、ある程度の隔離を伴った治療や政策が要求されるということだ。ハンセン病患者を隔離する政策には、「絶対隔離政策」と「相対隔離政策」の2つが存在する。まず、この2つの違いから述べていきたいと思う。

 ハンセン病が感染症であると判明した20世紀初頭以降、世界各国、特に当時の先進国とその支配地域では、療養所を中心としたハンセン病隔離政策がとられていた。その一方で、キリスト教の救癩ミッションが展開された地域では、療養所と外来診療所を併用し、療養所に入れない患者は、農業コロニーなどで労働に従事しながらも緩やかに隔離し、療養する形式がとられていた。どちらの隔離も公衆衛生的な概念に基づく隔離である。前者の隔離方法を「絶対隔離」という。ハンセン病患者を強力な感染源とみなし、近代医学のエビデンスに基づく厳格な感染症対策のことを指す。対して、後者は「相対隔離」と呼ばれる。ハンセン病患者を感染源とみなすのは同じだが、主に迫害されるハンセン病患者の保護とターミナルケア[191]を目的とし、西欧中世での宗教的隔離の精神を受け継ぐものである。この2つは、隔離の場での医学者と宗教家の交流の中でやがて融合し、科学主義に基づきながらも人権を尊重し、回復者の社会復帰を目指す動きに結実していった[192]

  • 絶対隔離
    • ハンセン病患者を強力な感染源とみなし、近代医学のエビデンスに基づく厳格な感染症対策。
  • 相対隔離
    • ハンセン病患者を感染源とみなすのは同じだが、主に迫害されるハンセン病患者の保護とターミナルケアを目的とし、西欧中世での宗教的隔離の精神を受け継ぐもの。

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第2節 日本におけるハンセン病政策

(1)「癩予防ニ関スル件」制定への背景

 明治日本における公的なハンセン病政策は、1800年代後半までほぼ皆無であり、その始まりは「癩予防ニ関スル件」(1907年)制定にあるといえそうである。「癩予防ニ関スル件」制定以前は、「伝染病予防法」(1897年)に基づいて防疫が行われていた。「伝染病予防法」は、急性感染症[193]対策を目的とした法律であり、警察取締的性格が強いという特徴をもっていた[194]

 ハンセン病に関しては、「伝染病予防法」が適用されることは無く[195]、一部の医師や海外からの宣教師、篤志家らによる救済や病院の設立が行われる程度であった[196]。しかし、収容人数が限られていたため、社会的に冷遇されていたハンセン病患者たちは、神社や寺の参道などに多く集まるようになる[197]。このような患者たちは「浮浪癩者」[198]と呼ばれた。外国人がハンセン病患者の救済に当たる場面は多く見られたようだが、明治政府は何の対応もとらなかった。そのため、外国からの厳しい批判があり、この結果、ハンセン病患者に対する法律「癩予防ニ関スル件」が制定されるにいたった[199]。一連の経過を述べていきたいと思う。

 その始まりは、一部の医師や海外からの宣教師、篤志家らによる救済や病院の設立である。1875年には、医師後藤昌文[200]が、私立「起廃病院」を東京神田猿楽町に設立している。起廃病院は、明治初期、ハンセン病専門の病院として名声を馳せた。また、1889年には、テストウィードGermain Leger Testvuide(フランス人神父)が、私立「神山復生病院」を静岡県に設立。日本初のハンセン病治療および療養のための施設であった[201]。1894年には、ヤングマンKate M. Youngman(アメリカ人女性宣教師)が設立した「好善社」という団体が「目黒慰廃園」[202]を東京都に設置した。翌年、1895年には、熊本県でハンナ・リデルHannah Riddell(イギリス人女性伝道師)が、私立「回春病院」[203]を設立。1898年には、ジャン・マリー・コールJean Marie Corre(フランス人神父)が「待労病院」[204]を同じ熊本県に建てる。

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 1899年になると、東京市内の窮民・浮浪者の収容施設だった東京市養育院[205]内に、渋沢栄一を院長として、ハンセン病患者を強制収容する「回春病院」が開設され、院内隔離を始めるようになる。

 以上のように、ハンセン病患者への救済や保護に関しては、政府が関わったものは少なく、ハンセン病対策の初期には、外国から来たキリスト教徒が、ハンセン病患者の置かれている状況をみかねて、本国から寄付を募って病院を設立していくという流れがみられた[206]。先の歴史を知っている私たちは、日本政府が積極的にハンセン病政策に取り組んだ(良くも悪くも)ことを知っている。

 では、いつの時期から、明治政府がハンセン病対策に積極的に乗り出すようになるのか。それには、江戸幕府が欧米列強と結んだ「不平等条約」が関係する。本論文では詳しく不平等条約については述べずに、不平等条約が解消[207]された後のことについて述べる。

不平等条約が改正されたことにより、外国人(特に欧米人)の内地雑居[208]が進み、寺社の門前で物乞いをするハンセン病患者が、多くの欧米人の目に触れるようになる。個人が私設でハンセン病患者の救済を行っていたといえども、その収容には、当然に限界があり、浮浪者とならざるを得ない患者も多かった。政府は、浮浪するハンセン病患者の姿を欧米人に見られることを「国辱」と捉え、政府の上層部にハンセン病に対する「国辱意識」が醸成されていった[209]。これにより日本は、国内での国辱意識の醸成[210]や国際社会での報告[211]に基づいて、政府は積極的にハンセン病対策に乗り出していく。

 1900年には、内務省によって「第1回全国らい実数調査」が行われた。この結果は、当時の日本の総人口4353万人に対し、ハンセン病患者3万359人、「血統戸数」19万9075人、「血統家族人口」99万人が存在するというものだった[212]。ハンセン病患者のうち「神社・仏閣・路傍等を徘徊する者」2万7421人、「一定の住所にあるが療養の資力なしとされた者」6877人であった(「放浪らい」と「定住らい」の合計は3万359人にならない)。また、比較的多くのハンセン病患者が住むとされた部落985村(戸数13万187戸、人口67万5884人)のうち、ハンセン病患者数は1万8592人、患家数は3799戸としている[213]。この調査は、各府県警察部が担当したこともあり、警察部が患者や住民にハンセン病に対する恐怖心を結果的に煽ることになった[214]

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 「癩予防ニ関スル件」制定までには、帝国議会で、同様法案の審議が6度にわたって行われている。「第1回全国らい実数調査」前年の1899年が1度目である。根本正[215]らが「癩病患者及乞食取締ニ関スル質問」を第13回帝国議会衆議院に提出している。これに対し、政府側(内相西郷従道)は、ハンセン病について伝染性疾患であることを認め、取り締まりの必要性を認めたものの取り締まり方法が困難であるとし、具体的方策を提示するには至っていない[216](「癩病ハ伝染性疾患ニシテ夙ニ其取締ノ必要ナルヲ認メタルモ其方法ノ困難ナルカタメ未タ著手ニ至ラサルモノナリ能ク講究シ措置スル所アラント欲ス」)[217]

 1902年の第16回帝国議会衆議院には、斎藤寿雄[218]らによって「癩病患者取締ニ関スル建議案」が提出されたのが2度目である。内務省の「第1回全国らい実数調査」をもとに、その姿を外国人の目に触れさせるべきではないとし、隔離法の制定を求めるものである。この建議案に関して、衆議院は満場一致で通過したものの、貴族院では会期時間切れのため議決を得るには至らなかった[219]。この建議案で文中に用いられた「光明皇后の御慈悲」「北山十八軒戸」「癩患者3万359人」「患者の血統を有する所謂親族100万人」「神社仏閣路傍の癩病患者」「文明諸国では癩病患者を捨て置く国はない」「癩病の蔓延を防ぐには隔離法を厳行するに在り」などの用語は、以後のハンセン病対策の確立過程で多くの人々に引用され、キャッチフレーズ化していくことになる[220]

 3度目は、第18回帝国議会衆議院(1903年)に、山根正次[221]により提出された「慢性及急性伝染病予防法ニ関スル質問書」である。これ以降の提出者は警察関係者となり、医学的根拠が乏しくなり、取り締まり法規としての側面が強くなるという大きな変化をもたらす。山根は、「慢性伝染病」については肺結核・ハンセン病・花柳病[222]・トラホームの4つの対策を政府に求めている。特にハンセン病に関しては、アメリカにおけるモロカイ島で行った隔離(絶対隔離の「ハワイ方式」)の有用性を強調していた[223]。これに対し、政府側(内相内海忠勝)は、4つの「慢性伝染病」について対策の必要性を認めたものの、関係部署が広汎なことや実行困難な点が多いことなどから、具体策を提示していない。

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次いで、山根正次は、第21回帝国議会衆議院(1905年)に、「伝染病予防法中改正法律案」を提出し、伝染病予防法の改正を求めている。伝染病予防法は、急性感染症を対象にしたもので、患者の隔離や消毒、それに蔓延地との交通遮断などを規定しているが、山根はこれにハンセン病を加えるべきだと主張した[224]。質疑で「慢性伝染病」であるハンセン病を対象に加えることに異議が出され、「癩病ノ如キ慢性ノ伝染病ハ別ニ予防及取締ノ法ヲ定メルガ適当デアラウケレドモ、此急激ニ来ルトコロノ伝染病ノ方ニ入レルト云フコトハ、其道ヲ得ヌ」[225]として、ハンセン病が伝染病予防法の対象となることは否決されている。

 翌年、1906年、第22回帝国議会衆議院に「癩予防法案」が提出される。ハンセン病患者の隔離、検診、届け出、消毒、外出および移動の制限、修学の制限、就職の制限、療養所の設置などについて、広範な感染予防のための条項が定められ、罰則についても規定されていた。提出は、山根正次らからであり、衆議院で可決するものの貴族院で時間切れにより審議未了となった。癩予防法案の審議は、山根ら9名[226]により「癩予防法案委員会」で検討された。山根は「第1回国際らい会議」の決議を「…一ハ、癩病ノ多数ニ発生シタル邦国ニアリテハ、其蔓延ヲ防グタメ、予防スルノ最良法ハ、隔離ヲ施スニアリ、二ハ、隔離法中最モ奨励スベキハ、諾威式ノ届出、看視、及隔離ノ系統ニシテ、独立ノ思想アル人民ヲ有シ、医師ノ数十分ナル邦国ニハ実行シ得ベシ、三ハ、此法ノ実行ハ、一ハ司法廳ノ議定ヲ経テ各種ノ社会的関係ニ適合スル法律ニ據ザルベカラズト云フコトヲ決議シタノデアリマス…」[227]と形式的に説明するにとどまり、「(アメリカ・モロカイ島やドイツ・メーメル、ハンブルグでの病院(絶対隔離)事例を挙げた後に)…今日マデ法律ガ無イト云フコトニナリマスルト、彼ノ路傍ニ居ルトコロノ貧者ト云フ者ハ、即チ此不幸ナル病気ヲ大道ニ曝シテ、外人或ハ内地人ニ向ッテ、錢ヲ乞フ、サウシテ其錢ヲ儲ケテ木賃宿ニ泊ッテ居ルト云フヤウナコトニナッテ居リマス、其木賃宿ガ今日ノトコロデ消毒サレルカト云フト、消毒モ何モサレナイ、木賃宿ハ獨リ癩病患者ノミナラズ、種々ノ患者ガ泊マルノデアル、故ニ是カラ是ト、宿屋カラ傳フルノモ多カラウト思フ、又一般ニ乞食ヲシテ歩クトコロノモノガ錢ヲ貰ッテ、其錢ヲ外ノ人ガ受ケテ、其錢ヲ或ハ口ノ中ナドニ入レルコトモアリマスガ、物ヲ買フタリ、何カスルト、サフ云フモノカラモ或ハ傳ハルカモ分ラヌノデアリマスル…」[228] - 5 - と国内で物乞いをする患者の状況を問題視した。「癩予防法案委員会」で審議した1人である島田三郎は、「日本ハ武力ニ於テ世界ノ一等国ニナッテ居ルニ拘ハラズ、野蛮国デナケレバ現ハレナイトコロノ此癩病患者ガ是ノ如ク多数アッテ、此取締法ニ一モ注意ヲ払ハヌト云フコトニ至ッタナラバ、此点ニ於テハ日本ハ何分ニモ文明国ニ列スル面目ハナイ」と、法律の必要を力説し、国家としての「体面」を重視しての法案可決を求めた[229]。これを受けて、委員の1人である吉原三郎は「中央衛生会に諮問をし、現在も種々の議論を行っている。いまだ結論は出ていない」[230]と説明している。

 内務省は同年1906年、具体的にハンセン病対策に乗り出すことを前提に、2回目の全体調査となる「第2回全国らい実数調査」を実施した。この調査では、全国でハンセン病患者2万3815人、患家人口10万2585人、住所不定患者を1182人と算定している[231]

 1907年になり、遂に第23回帝国議会衆議院に、政府(第1次西園寺公望内閣)によって「癩予防ニ関スル法律案」が提出される。この法律案は全12条からなり、「癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキ者」に重点が置かれ、放浪患者や貧困者を療養所へ強制入所させることを強調する内容で、1906年の山根案と比べて放浪患者・貧困患者を主として隔離するという趣旨をより明瞭にした。しかし、その一方で、「適当ト認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ」と記し、放浪患者・貧困患者すべてを隔離するものでもないことを示している。そして、患者を収容するため、2道府県以上で療養所を設置することも規定した[232]。法案の審議にあたり、衆議院では「癩予防ニ関スル法律案委員会」、貴族院では「癩予防ニ関スル法律案特別委員会」が設置される。両委員会の審議の特徴は、ハンセンの「らい菌」の発見には触れるものの、「第1回国際らい会議」や「ノルウェー方式」に関しては、一切の言及がない点である[233]。さらに、政府委員の吉原三郎は、法案提出の理由について次のように3つの理由を挙げて説明している。

(1)癩病の特徴は伝染病であるが、経過が緩慢である。そのため世人の注目が、コレラやペストほどではない。

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(2)患者たちは神社仏閣あるいは公園等の群衆の目に触れる所で徘徊をしている。これは「外観上余程厭フベキコト」である。故に取り締まりを行う必要がある。

(3)「救護者モナク、又自ラ治療ノ方法モ有セザル者」は、一定の収容所に集めて公費で治療を行い、救護者ある者に対しては病毒の予防を行う[234]

 政府が法案を提出した理由は、「外観上余程厭フベキコト」を放置できず、その取り締まりを行うためである。これに伴って、提出法案は前議会に提出された法案から、伝染病予防関連条項が削除され、浮浪徘徊の隔離・収容に重点が置かれたものとなっている[235]。貧困なハンセン病患者の神社仏閣・道路等での徘徊防止のための収容政策を打ち出したことは、伝染性の根絶という隔離収容政策に国家の体面が結びついた提案ととれるだろう[236]。その後、この法案は原案賛成により両院で可決され、「癩予防ニ関スル件」が制定される。1907年勅令第284号によって施行された。

 以上を簡単にまとめると、次のような契機があり、「癩予防ニ関スル件」が制定されたことが分かる。

  1. 1897年にベルリンで開かれた「第1回国際らい会議」で、ハンセン病が感染症であり、その予防策として隔離がよいと確認されたこと
  2. 1899年、欧米諸国との間の条約の改正により、外国人の「内地雑居」が開始されたこと
  3. ハンセン病に対する国辱意識に基づいて、警察組織の関係者から「ハンセン病取締法案」が、度々帝国議会に提出され、審議を行ったこと
  4. 審議を行うにつれて、国家としての体面を重視するようになり、ハンセン病の「放浪患者」や「貧困患者」の収容に焦点があてられていったこと

このような契機を経て、「癩予防ニ関スル件」は制定された。法案時点では、ハンセン病患者の内、「放浪患者」や「貧困患者」にのみ焦点が当てられてはいるものの、結果としては国家としての体面を重視する内容となった[237]

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(2)「癩予防ニ関スル件」によるハンセン病政策

 「癩予防ニ関スル件」(明治40(1907)年法律第11号)は、主として

  1. 医師の消毒その他の予防方法の指示と関係各省へ届け出義務に関する(罰則含む)規定(1条、2条、10条、11条、12条)
  2. 無資力で放浪するハンセン病患者の強制収容に関する規定(3条)
  3. 公立療養所の設置に関する規定(4条)
  4. 救護費負担に関する規定(5条、6条、7条、8条)
  5. 指定医の検診に関する規定(9条)

の5つの規定から構成される全12条の法律である[238]。法の適用対象を「癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ(第3条)」と、浮浪・放浪するハンセン病患者に限定し、その身柄を保護するとともに、療養所へ入所させ、救護することを定めている[239]。また、ハンセン病患者に救護者がいる場合には、救護者にハンセン病患者を保護する義務が生じることも定めていた[240]。ハンセン病患者は、「癩予防ニ関スル件」では、一定の条件に当てはまらない限り、隔離を回避することができたため、その意味においては絶対隔離と捉えることはできない。

 法律制定に伴って、全国5か所に連合道府県立療養所の設置[241]が行われ、救護に係る費用は救護者の負担とすることが定められた[242](多くは国が負担していたことが考えられる)。内務省令第20号[243](1907年)によって、全国を5区域に分類し、「全生病院(第1区域・定員350名)」、「北部保養院(第2区域・定員100名)」、「外島保養院[244](第3区域・定員300名)」、「第4区療養所[245](第4区域・定員170名)」、「九州癩療養所[246](第5区域・定員180名)」の5つの公立療養所が設置された[247]。しかし、この5か所を合わせても収容規模は1100床程度であり、内務省による全国調査で明らかになったハンセン病患者数(第1回:3万359人、第2回:2万3815人)に対して収容数が少ないため、到底、全員を収容することはできなかったことは容易に想像される[248] - 8 - さらに、療養所の用地の選定や議会への説明、最初の人事権などは、警察部が担当し、開設後のハンセン病患者の収容も警察官によるものが多かった[249]。警察官に連行されていくハンセン病患者の姿を見た「一般市民」の中には、「得体のしれない恐怖」を感じた者も多かったのではないだろうか。

 「癩予防ニ関スル件」は、それまでの宣教師たちの流れを引き継いでいるために、その名前が示すように一義的には、ハンセン病(癩)の予防と救護を主目的としていた。そのため、検診や消毒、救護についての規定は存在するが、診察や治療、患者の治癒などについての規定は盛り込まれていない[250]。つまり、患者を治療することも社会復帰させることも、法律制定時の当初の考えには無かったと捉えることができる[251]

 「癩予防ニ関スル件」制定に関わった人物の1人として「光田健輔」が挙げられる。光田は「救癩の父」とも呼ばれ、ハンセン病患者の救済に挺身した人物である。この光田の考えは、「ハンセン病患者は社会の中で過酷な差別にさらされている」「ハンセン病は遺伝的要素を持ち、感染力の強い、恐ろしい病気である」「ハンセン病は完治することのない、不治の病である。この理由から、患者が社会の中で苦しむより社会から完全に隔離された中で、同じ病の者同士が暮らす方がはるかに幸せである」というものであった。この考えが「癩予防ニ関スル件」の規定に反映されていく[252]。光田は、「第1回国際らい会議」の決議内容を的確に把握していた。自身の論文でアルマウェル・ハンセンの論文を引用し、ノルウェー方式における患者減少について言及している。その有効性を認めつつも、入院励行した場合には著しく新患の発生が減少するとして「絶対隔離に接近するに従い新患者の発生を予防し得ることも疑いを入れざる也」と絶対隔離を推進している。論文の結語において、ノルウェー方式を支持しているが、この光田の趣旨は、隔離の方法に重点があるのではなく、国家政策によるハンセン病対策をなすべきだとする点にある[253]

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 「癩予防ニ関スル件」の制定時は、まだ治療薬のない時代であり、また、ハンセン病が感染症である以上、患者を隔離して一般人との接触を断つ対策以外に方法が無かったことは想像できる。しかし、加賀谷氏は、政府中央部には別の思惑があったと説く。日本は、国内に外国人の内地雑居が進み、放浪するハンセン病患者を欧米人に見られることを大きな屈辱であると考えていた。さらに、当時、ハンセン病は北米や欧州には少なく、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどで多くの患者が発生していたことから、ハンセン病は文明国として不名誉であり恥辱であると認識していた。そこで、隔離の必要性を強調することを目的にハンセン病の伝染性をことさら怖い病気であるということを国民に知らせることが必要となり、その結果として国民に偏見・差別意識や恐怖感をさらに植えつけることとなったと推察している[254]

 この「癩予防ニ関スル件」であるが、当初はどの療養所においても所長が警察官であり、出張巡査派出所を備えている療養所もあった。療養所の治療と言っても名ばかり(治療として効果の薄い大風子油の注射は行われていた)で、患者は取り締まられる一方であった。患者に対して「飲酒禁止」や「男女交際禁止」など数多くの禁止事項があった[255]。これにより、自暴自棄に陥った患者の中には、「賭博」「喧嘩」「逃走」などに手を出す者も多くなり、世間一般からも、入所者は悪質であり療養所外において犯罪を起こす場合が多いと考えられるようになっていった。しかし、ハンセン病の伝染性を考慮すると、患者を療養所から追い出すわけにはいかず、「療養所内の秩序維持と犯罪ハンセン病患者の懲戒を目的とする法律」の必要性が叫ばれるようになった。1909年には、第4区療養所(大島療養所)において、事務長へ反発した患者らが事務所を襲うという事件が、1913年、全生病院においては、患者逃走をほう助した入所者へ懲戒(監禁、減食)を下した院長への反感を抱いた270名もの患者らが内務省宛の嘆願書[256]を携えてデモ行進し、東京府知事へ直訴しようと所内の門を破って脱出するという事件が相次いで発生している[257]。収容された浮浪患者らにとって、療養所は相当の苦痛であり、病状が改善すれば逃走し元の生活へ戻り、病状が悪くなればまた療養所へ戻ってくる[258]という、まさに「いたちごっこ」の状態である。

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 その結果、入所者の管理のために「療養所当局に警察権を与えるべきだ」とする意見が噴出する。1916年2月、第37回帝国議会に、法律「癩予防ニ関スル件」に「療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ被救護者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」という条文を加える改正案が第2次大隈重信内閣から提出されている。2月24日、衆議院本会議で、改正法案について、内務省参政官藤沢幾之輔が「…明治四十年法律第十一号中ノ次ニ第四条ノ二ノ一条ヲ設ケマシテ、癩療養所長ニ感化院長ト同ジヤウナ具合ニ其秩序維持ノ必要上、懲戒及検束ノ権力ヲ與ヘントスルモノデゴザイマス、斯様ニ致シマセヌケレバ此多クノ病人ヲ集メテ置キマシテ、ナカナカ其秩序ヲ維持スルト云フコトハ困難デゴザイマスルカラシテ、ヤハリ検束、懲戒、是等ノ方法ヲ用イタイと思フ…」[259]と説明している。続く、2月25日には、内務省衛生局長中川望が、放浪患者の中には「…往々ニシテ無頼ノ徒ガアリマシテ、殊ニ世間ト隔離サレテ慰安ノ途モ比較的乏シイノデアリマスルカラ、自然所謂閑居シテ不善ヲ為ス場合モ少ナカラヌノデアリマス、或イハ種々ノ要求ヲ逞シウシテ職員ニ抵抗ヲ試ミタリ、或イハ他ノ患者ヲ脅迫シテ種々ノ紛擾ヲ起コシマシタリ、是等ノタメニ器物ヲ毀損スルトカ、或イハ職員若シクハ被救護者ニ対シテ暴行ヲ加フルト云フヤウナ事例モ少ナクナイ…」[260]として、隔離のため、ハンセン病患者を通常の告発、裁判、刑務所への収監ができない以上、療養所長に懲戒検束権を与えることは必要であると述べている。注目すべきは、懲戒検束の対象行為に「種々ノ要求ヲ逞シウシテ職員ニ抵抗ヲ試ミ」るとしている点である。隔離された患者が療養所に待遇改善の要求をすることを懲戒検束の対象にしている[261]ことからも、ハンセン病患者の「療養」ではなく「収容」を主目的にしていた「癩予防ニ関スル件」の考え方が前面に現れている。このようにして、療養所所長へ懲戒検束権が付与されることになる。

 療養所長に対する「懲戒検束権」の付与は「懲戒検束権ニ関スル施行細則(1917年)」[262]によって規定される。「療養所ノ長」が「被救護者」に対して行う「懲戒又ハ検束」は、「譴責」「謹慎」「減食」「監禁」の4つである[263]。違反者による違反行為の程度に応じて、懲戒検束の内容が定められていた。違反行為が、軽度の者には「譴責又ハ三十日以内ノ謹慎」[264]、中程度の者には「三十日以内ノ謹慎又ハ七日以内ノ減食」[265]、重度の者には「七日以内ノ減食又ハ三十日以内ノ監禁」[266]が行われることが規定される。 - 11 - さらに、重度な違反行為を行った者には、必要に応じて「管理者ノ認可ヲ経テ三十日以上二ヵ月以下ノ監禁ニ処ス」[267]ことが可能だった。これに伴い療養所内に監禁のための部屋が設けられる。それは、もともとは急性感染症発症者のための隔離部屋だったり、新規で建設された建物だったり様々だった。中でも、1938年、栗生楽泉園に作られた「特別病室(重監房)」は、入り口は鉄扉で、床はコンクリート、部屋は明かりとり用の小窓しかないという構造であった。そこは、冬になると-20℃にもなり、部屋中が凍り付くと言われるほどの惨状だった。そして、重監房では、監禁と減食が同時に行われ、おにぎり2個と白湯2杯の食事しか与えられないというものであり、多くのハンセン病患者が死亡している[268]。成田は、重監房について『…極端な食事と水分の制限、すなわち一日当たりの摂取カロリー量350ないし400、蛋白質僅少、動物性脂肪とビタミンA、D、K、C皆無、水分も450ミリリットル前後、加えて厳冬下にも保温設備のない零下十数度の中で薄い掛け布団1枚という、まさに密室の凍餓実験さながら…』[269]であったと考察している。

 また、療養所内では男女別に隔離していたにも関わらず、ハンセン病患者から出生した「子ども」という問題が発生していた。全生病院を例に挙げていく。全生病院では、1909年設立の段階では、男女別宿舎、夫婦舎(8畳に2組雑居)など男女を分ける方法をとっていた。女性舎の周囲に板塀を張り巡らせて、男性の出入りを禁じ、女性たちは鍵付きの通用門から出入りしていた。女性舎は、監督(見張りの職員)によって厳しく監視され、女性舎にいるのが見つかった男性は監督にぶたれたり、減食されたりした。それでも塀を乗り越えて男性患者たちは女性舎に通っていた[270]。「通い婚」とも呼ばれたこの習慣は、全生病院のほか、多くの療養所で発生していた。療養所長たちは、厳格な「性の分離」を行わず、逆に男女関係を緩やかにすることで、遊戯などの設備のない療養所生活からの脱走を防止することに利用していた[271]。その結果、「子ども」という問題が発生してくるのである[272](合意形成のない性的関係を女性が強いられ、それによる妊娠と出産もあったようだ)。

 増えすぎた子どもの問題を解決すべく、1915年、全生病院の院長に就任していた光田健輔は、男性への断種手術を無認可で行うようになる。すなわち「ワゼクトミー」である。今となっては、これが医学的根拠を全く持たない非合法な処置であったと言える。

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 当初は、光田も、療養所内での男女の隔離について「其長所トスル所ハ、清潔・消毒・医療等ノ実行ハ容易ニシテ、又男女ノ区画ヲ厳ニシ之レニヨリテ直接ニ健康ナル周囲ノ人々ニ危険ヲ及ボスコト少ナク、又間接ニハ子孫ヲシテ不幸ナル運命ヲ得セシメザルノ益アル」[273]と述べていることから、子孫の出生防止を施設内での男女の隔離によって実現しようとしていた[274]ようだが、上記のような「通い婚」が横行したため失敗に終わる。男女の隔離を徹底する方法は、途方もない距離で分ける、乗り越えられないような高い壁を作る、女性の収容場所を全生病院外の他療養所にする、などの方法が考えられたはずである。

 しかし、「子ども」という生じた事態に苦慮した光田は、打開策として男性患者に対する断種を導入するに至るのである。光田を後押しした可能性のあるものの1つとして、北部保養院医長の中條資俊が発表した論文が挙げられる。中條は論文の中で、胎児への感染ルートとして子宮内における胎盤を通した感染と産道伝染の可能性の検証が進められていることを指摘している。そして、自分と同じような発想から外島保養院医長の菅井竹吉や九州療養所医長の河村正之たちもほぼ同時期に 「癩性胎盤」 の研究に着手したことを紹介し、 「らい菌」 が胎盤を通過して胎児の血管に移行することが確認できたと述べている[275]。中條資俊が研究を始めたのが1911年、その論文は1915年に発表されていることから、光田が断種へと思い至るのを後押しした可能性があると言えるのではないだろうか。

 光田は、「長い年月の間に相寄り、相助ける[276]美しい共同生活―進んで夫婦生活ができるならば、その生はどんなに慰められることであろう」と考え、「子供さえ生まずにすむならば、男女の共同生活、或いは夫婦生活は断じてできるようにしてやるべきである」と決断した経緯を述べている[277]。さらに、光田は断種を患者の管理に利用する。光田は断種を条件に男女間の性交渉を容認することで、患者の性欲を馴致して患者管理を容易にした[278]だけではとどまらず、断種導入によって出生防止と両立可能になった男女共同収容を、隔離された患者たちが療養所で強いられる「人生」に意義を与えることとして再定義し、活用した。光田にとって、患者の断種そして結婚は要として重要な意味をもつこととなる。

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 このような光田のハンセン病男性患者への断種政策は、「優生保護法」成立以前ではあるが、内務省・司法省の黙認のもとで男性入所者への断種が実施されていた[279]。国家は遺伝病であることを否定、感染力を誇大に宣伝して、「癩予防ニ関スル件」を制定、その隔離政策を推進してきたにもかかわらず、隔離を推進した人々(光田など)の施策や言論には、ハンセン病が遺伝病であるかのような特徴が顕著に見られる。特に光田の断種には、「療養所管理の負担軽減」や「子孫の発生防止」などの思想が見える。感染症であることを理解していたとしても、その振る舞いからは「ハンセン病=遺伝」であり、ハンセン病に対して科学的知識をもたない「無知」な患者に対して断種を利用していくことで、優位に立ち、患者の管理を推し進めてきたという実態がある。

(3)「癩予防法」によるハンセン病政策

 「癩予防ニ関スル件」によるハンセン病政策であるが、「癩予防ニ関スル件」は隔離する患者を浮浪者や放浪者に限定しており、すべての患者を強制的に隔離するような法律ではなかった。強制的に隔離することを規定したのは「癩予防法」であるが、いつ頃から「患者の救護」から「隔離」に傾くようになっていくのか。「癩予防法」の制定やその政策による経過をたどっていきたい。

 放浪するハンセン病患者を救護するのではなく、全患者の収容という大きな転換点を担った人物の1人として、光田健輔が挙げられる。光田は前述したように、全生病院での断種を実行し、「患者が社会の中で苦しむより社会から完全に隔離された中で、同じ病の者同士が暮らす方がはるかに幸せ」などの思想を掲げていた人物である。転換の一因は、光田が、1915年に内務省に対して提出した「癩予防に関する意見」にあるのではないだろうか。

 光田は「癩予防に関する意見」の中で、第一案で「四十年発布ノ癩予防法ニハ浮浪者ヲ収容シテ他ハ可成家族内ニ予防的注意ヲ與ヘ療養セシムル方針ナルガ本邦ノ民度及習慣ニ於テハ大部分ハ未ダ此レニヨリテ完全ニ予防離隔セラルルコト困難ナリ。家族伝染ハ一層属シカラントス。願クハ三十九年公ニセラレタル二万三千ノ癩患者ヲ国庫ノ費用ニヨリ一大島ニ離隔セラルルコトハ識者等ノ望ム所ナリ」[280]と述べ、患者の離島への隔離を提案している[281] - 14 - また、離島での隔離について、「論者或ハ人権問題ヲ云為シテ患者ノ絶対的隔離ハ困難ナラント云フ者アレドモ今日迄ノ経験ニヨレバ一旦患者療養所ニ来リタル者ハ決シテ再ビ家郷ニ復スルモノアラズ、譬ヘ或ル事情ノ為メ一旦逃走スルコトアルモ必ズ再ビ帰院スルカ若クハ他ノ療養所ヘ入院スル者ノ如シ、故ニ人権ヲ云為スル者極メテ少数ニ過ギザルベシ」[282]と述べて、一度療養所へ入所した患者には、帰るような故郷もなく、逃走したとしても一時的なものであり、必ず帰園することが経験的に分かるので、全患者の離島への隔離を行ったとしても人権問題には該当しないと持論を展開する。さらに、国は、「(一)国立療養所を作りて浮浪癩患者を収容すること」「(ニ)有資癩患者を収容する途を開くこと」「(三)各府県立療養所を拡張し更に三個を増設すること」の3点に着手すべきであると述べている[283]

 政府が、この光田の思想や提案に影響されたかどうかは定かではないが、日本政府は1920年に「根本的癩予防要項」を発表する。1918年には、国内のハンセン病患者の状況が調査され、1918年時点で、総患者数は1万6262人であり、推定の全国患者数は2万6343人であった。このうち「療養の資力乏しき者」に関しては、1万人に達すると推定されている[284]。「根本的癩予防要項」は、この調査結果を受け、既存の公立療養所の収容定員を4500人へと大幅に増員するとともに、国立の療養所を新設(定員500名)、第一段階として10年間で約5000名を収容する計画案であった[285]。発案当初は1万名収容へと変更の予定であったが、戦後恐慌により5000名へと削減されている。1927年には、光田の「厳正」な適地調査と選定により、瀬戸内海の長島において国立療養所の設置が決定している。

 ここまでは、まだ強制隔離への序章と言ってもよい。大きく方針転換するのは、1925年のことである。1925年、内務省が法律の解釈を変更し、「癩予防ニ関スル件」第3条「癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官庁ニ於テ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ」を解釈変更し、従来の「住居も資力もない」という解釈を改めて「療養の設備を持たない」とし、また、救護者は単なる扶養義務者を指すのではなく、「扶養能力に加え病気治療が可能な者」と理解するようにと衛発第120号通牒「癩患者ノ救護ニ関スル件」で、道府県知事に指示している[286]。身の回りの救護者が、余程のハンセン病専門医、それも「名医」でなければ、達成不可能な条件設定である。

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 さらに、1930年には内務省衛生局が「癩の根絶策」を策定している。内務省は三案を発表、日本のハンセン病患者数を1万5000人と推定し、そのうち、5000人を従来の公立療養所と新設の国立療養所とに収容し、残った1万人について、「癩根絶20年計画」[287]「癩根絶30年計画」[288]「癩根絶50年計画」[289]という三通りの「根絶計画」を提示する。ハンセン病患者の全員隔離および終生隔離によるハンセン病の「根絶」を目指した。

 翌1931年には、「癩予防ニ関スル件」を大幅に改正し、ついに「癩予防法」が制定される。改正に伴って名称が「癩予防法」に変更されただけでなく、その性質にも大幅に変更される。以下表にまとめていく。網掛けを行っているところは大きく変更が為された点であり、「癩予防法」と対応している場合は「癩予防ニ関スル件」にも網掛けをしている。

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表8 「癩予防ニ関スル件」と「癩予防法」の比較

条文


癩予防ニ関スル件(1907)

 

癩予防法(1931)[290]

第1条

医師癩患者ヲ診断シタルトキハ患者及家人ニ消毒其ノ他予防方法ヲ指示シ且三日以内ニ行政官庁ニ届出ツヘシ其転帰ノ場合及死体ヲ検案シタルトキ亦同シ

〔変更なし〕

第2条

癩患者アル家又ハ癩病毒ニ汚染シタル家ニ於テハ医師又ハ当該吏員ノ指示ニ従ヒ消毒其ノ他予防ヲ行フヘシ

〔第2条の1項は変更なく、以下が追加〕

第二条ノ二

行政官庁ハ癩予防上必要ト認ムルトキハ左ノ事項ヲ行フコトヲ得

一 癩患者ニ対シ業態上病毒伝播ノ虞アル職業ニ従事スルヲ禁止スルコト

二 古着、古蒲団、古本、紙屑、、飲食物其ノ他ノ物件ニシテ病毒ニ汚染シ又ハ其ノ疑アルモノノ売買若ハ授受ヲ制限シ若ハ禁止シ、其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為サシメ又ハ其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為スコト

第3条

癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官庁ニ於テ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ但シ適当卜認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ

2 必要ノ場合ニ於テハ行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ前項患者ノ同伴者又ハ同居者ニ対シテモ一時相当ノ救護ヲ為スヘシ

3 前二項ノ場合ニ於テ行政官庁ハ必要卜認ムルトキハ市町村長(市制町村制ヲ施行セサル地ニ在リテハ市町村長ニ準スヘキ者)ヲシテ癩患者及其ノ同伴者又ハ同居者ヲ一時救護セシムルコトヲ得

行政官庁ハ癩予防上必要ト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノヲ国立癩療養所又ハ第四条ノ規定ニ依リ設置スル療養所ニ入所セシムベシ

必要ノ場合ニ於テハ行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ前項患者ノ同伴者又ハ同居者ニ対シテモ一時相当ノ救護ヲ為スベシ

前二項ノ場合ニ於テ行政官庁ハ必要ト認ムルトキハ市町村長又ハ之ニ準ズベキ者ヲシテ癩患者及其ノ同伴者又ハ同居者ヲ一時救護セシムルコトヲ得

前項ノ規定ニ依リ市町村長又ハ之ニ準ズベキ者ニ於テ一時救護ヲ為ス場合ニ要スル費用ハ必要アルトキハ市町村又ハ之ニ準ズベキモノニ於テ繰替支弁スベシ

第4条

主務大臣ハ二以上ノ道府県ヲ指定シ其ノ道府県内ニ於ケル前条ノ患者ヲ収容スル為必要ナル療養所ノ設置ヲ命スルコトヲ得

2 前項療養所ノ設置及管理ニ関シ必要ナル事項ハ主務大臣之ヲ定ム

3 主務大臣ハ私立ノ療養所ヲ以テ第一項ノ療養所ニ代用セシムルコトヲ得

第四条第三項ヲ削ル

第四条中ノ二中「被救護者」ヲ「入所患者」ニ改ム

第5条

救護ニ要スル費用ハ被救護者ノ負担トシ被救護者ヨリ弁償ヲ得サルトキハ其ノ扶養義務者ノ負担トス

2 第三条ノ場合ニ於テ之カ為要スル費用ノ支弁方法及其ノ追徴方法ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

私立ノ癩療養所ノ設置及管理ニ関シ必要ナル事項ハ主務大臣之ヲ定ム

第6条

扶養義務者ニ対スル患者引取ノ命令及費用弁償ノ請求ハ扶養義務者中ノ何人ニ対シテモ之ヲ為スコトヲ得但シ費用ノ弁償ヲ為シタル者ハ民法第九百五十五条及第九百五十六条ニ依り扶養ノ義務ヲ履行スヘキ者ニ対シ求償ヲ為スコトヲ妨ケス

北海道地方費又ハ府県ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ第二条ノ二第一号ノ規定ニ依ル従業禁止又ハ第三条一項ノ規定ニ依ル入所ニ困リ生活スルコト能ハザル者ニ対シ其ノ生活費ヲ補給スベシ

第7条

左ノ諸費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス但シ沖縄県及東京府下伊豆七島小笠原島ニ於テハ国庫ノ負担トス

一 被救護者又ハ其ノ扶養義務者ヨリ弁償ヲ得サル救護費

二 検診ニ関スル諸費

三 其ノ他道府県ニ於テ癩予防上施設スル事項ニ関スル諸費

2 第四条第一項ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分担方法ハ関係地方長官ノ協議ニ依リ之ヲ定ム若シ協議調ハサルトキハ主務大臣ノ定ムル所ニ依ル

3 第四条第三項ノ場合ニ於テ関係道府県ハ私立ノ療養所ニ対シ必要ナル補助ヲ為スヘシ此ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分担方法ハ前項ノ例ニ依ル

第七条第一項ヲ左ノ如ク改メ同条第三項ヲ削ル

左ノ諸費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス

一 第二条ノ第二号ノ規定ニ依リ行政官庁ニ於テ物件ノ消毒又ハ廃棄ヲ為ス場合ニ要スル諸費

二 入所患者(国立癩療養所入所患者ヲ除ク)及一時救護ニ関スル諸費

三 検診ニ関スル諸費

四 其ノ他道府県ニ於テ癩予防上施設スル事項ニ関スル諸費

第七条ノ二

本法ニ依リ北海道地方費又ハ府県ニ於テ負担スベキ費用ハ東京府伊豆七島及小笠原島ニ於テハ国庫ニ負担トス

第8条

国庫ハ前条道府県ノ支出ニ対シ勅令ノ定ムル所ニ従ヒ六分ノ一乃至二分ノ一ヲ補助スルモノトス

〔ほぼ変更なし〕

第八条中「前条」ヲ「第六条中及七条ノ規定ニ依ル」ニ改ム

第9条

行政官庁ニ於テ必要ト認ムルトキハ其ノ指定シタル医師ヲシテ癩又ハ其ノ疑アル患者ノ検診ヲ行ハシムルコトヲ得

2 癩ト診断セラレタル者又ハ其ノ扶養義務者ハ行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ヲ求ムルコトヲ得

3 行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ニ不服アル患者又ハ其ノ扶養義務者ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ更ニ検診ヲ求ムルコトヲ得

〔ほぼ変更なし〕

第九条中「扶養義務者」ヲ「親族」ニ改ム


    第10条

医師第一条ノ届出ヲ為サス又ハ虚偽ノ届出ヲ為シタル者ハ五十円以下ノ罰金ニ処ス

第一条ノ規定ニ違反シ又ハ第二条ノ二ノ規定ニ依ル行政官庁ノ処分ニ違反シタル者ハ百円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス

第十条ノ二

第二条ノ規定ニ違反シタル者ハ科料ニ処ス

第11条

第二条ニ違反シタル者ハ二十円以下ノ罰金ニ処ス

医師若ハ医師タリシ者又ハ癩予防事務ニ関係アル公務員若ハ公務員タリシ者故ナク業務上取扱ヒタル癩患者又ハ其ノ死者ニ関シ氏名、住所、本籍、血統関係又ハ病名其ノ他癩タルコトヲ推知シ得ベキ事項ヲ漏泄シタルトキハ六月以下ノ懲役又ハ百円以下ノ罰金ニ処ス

第12条

行旅死亡人ノ取扱ヲ受クル者ヲ除クノ外行政官庁ニ於テ救護中死亡シタル癩患者ノ死体又ハ遺留物件ノ取扱ニ関スル規定ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第十二条中「行政官庁ニ於テ救護中」ヲ「療養所ニ入所中又ハ第三条第二項及第三項ノ規定ニ依ル一時救護中」ニ改ム

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 法律改正での大きな変更点は、療養所に入所する対象が変更された点である。「癩予防ニ関スル件」では「癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」であるが、「癩予防法」では「癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞(おそれ)アルモノ」となっている。ハンセン病は感染症なので、罹患すると他人に感染させる可能性がどの罹患者にも存在する。つまり、すべてのハンセン病患者は「病毒伝播ノ虞アルモノ」なのである。療養所への入所対象が、放浪者などの限定的な患者から、すべての患者へと拡大されていることを指す。また、どちらの法にも入所規定はあれども、退所の規定は存在していない。すなわち、療養所に一度入所してしまうと、一生退所できないことを指す。ここから、日本の「終生の絶対隔離」の旗印が立ち上がる。

 なぜ、すべてのハンセン病患者を対象とした法改正をするのかについて、政府委員の赤木朝治は次のように述べる。赤木は『…対外関係から見ましても、国家の体面の上から此病気(ハンセン病)の徹底的予防、根絶を致すと云うことは愈々緊切なことであると考へて居るのであります』 と述べている[291]。さらに、ハンセン病と結核の対応の違いについての質問には、「癩病と結核は大体同じと考えている」「癩病は結核に比べて患者数が少ない」[292]と述べ、『…癩に一旦罹った際、其人個人なり或は其周囲の者の受くる所の打撃と申しますか、悲惨な程度は今日結核に冒された者に比較致しまして、雲泥の差があると言っても宜しいかと思ふのであります』[293]と述べている。赤木の答弁からは、国家の体面、周囲の家族や親族などのためにハンセン病患者を隔離すると解釈できる。また、結核は非常に多くの患者がおり隔離が難しいのに対して、ハンセン病患者は数が少ないので隔離がしやすいともとれる。国家の体面上や結核より患者が少ないなど、いずれの理由にしても、「癩予防法」の改正について、赤木は、ハンセン病の隔離に対する医学的な根拠を示すことができていないのである。

 「癩予防法」は、ハンセン病患者の隔離に法的な根拠を与えただけでなく、「家族などの周囲の人の為」という大義名分を立て、すべての患者の「隔離」を目指すという道筋を作ってしまった。各府県は「無らい県運動」を展開し、患者を「発見」し、その収容を強化していく。患者が療養所外で生きられない社会を創出するべく、官民一体となって「無らい県運動」が実施された。

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 「無らい県」とは、文字通りハンセン病患者がいない県、すなわち、すべての患者を隔離し、放浪患者や在宅患者がひとりもいなくなった県を意味する。この語が初めて使用されたのは、1929年の愛知県であったが、広く使用されるようになるのは、1931年の「癩予防法」により絶対隔離政策が実施されてからである。特にハンセン病患者の「癩根絶20年計画」が開始された 1936年以降に強調されていく。「無らい県」を実現するべく、患者を摘発して療養所に送り込もうとする官民一体となった運動が「無らい県運動」である[294]。「無らい県運動」は、「官」が「癩撲滅」というイデオロギーのもとで主導し、そのイデオロギーに呼応した「民」による大衆運動であった。

 ハンセン病患者にとっては、療養所での一生の隔離という選択肢しかなかったため、当然ながら療養所への入所に従わない患者もいた。そこで、一般市民を利用して「隠れ住んでいる」患者を発見した際には、行政へと「通報」させる上意下達の装置として「無らい県運動」が用いられた。近隣住民の密告で「潜伏」していた患者が見つかると、白い予防着を着た医師や保健所の職員、警察官らがやってきて療養所へと患者を「連行」し、住居は徹底的に消毒するというのが日常であった。患者の存在が近隣に瞬く間に知れ渡り、患者の隔離によって家族が引き裂かれるだけでなく、「ハンセン病を出した家」として残された家族も迫害を受けた[295]。一般市民の中にあるハンセン病への「忌避意識」を巧みに利用するとともに、戦争へと向かいつつある日本において情報伝達や相互監視のための「隣組制度」を整えるための絶好の機会でもあった[296]

 徐々に「あぶり出されて」増加していくハンセン病患者を収容すべく、療養所も増設されていく。第二次世界大戦が終戦となる1945年8月15日までに、今も存在する13の国立療養所が設置され、整えられる[297](そのほとんどがへき地である)。

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表9 国立ハンセン病療養所の分布(住所は、2020年現在のもの)


名称


  開設年


    現住所

                         

アクセス


1909年4月

(1941年に国立移管)

青森県青森市大字石江字平山19

・JR新青森駅南口から1.5km。徒歩約15分(タクシーで5分)。

・東北自動車道青森インターチェンジから3km、約6分。

・青森空港から約14km、タクシーで約20分。

1938年4月

宮城県登米市迫町新田字上葉ノ木沢1

・東北新幹線くりこま高原駅から車で12分

・東北本線瀬峰駅から車で7分

・東北自動車道築館インターから車で11分

1932年12月

群馬県吾妻郡草津町大字草津乙647

・JR新幹線軽井沢駅より草軽交通バス(草津温泉行)草津温泉バスターミナル下車、バスターミナルよりタクシー約5分(3km)

・JR新幹線またはJR高崎線高崎駅より吾妻線乗りかえ長野原草津口駅下車、JRバス(草津温泉行)草津温泉バスターミナル下車、バスターミナルよりタクシー約5分(3km)

・東京・練馬IC-(約103km)-渋川・伊香保IC-(約60km)-当園

1909年9月

(1941年に国立移管)

東京都東村山市青葉町4-1-1

・西武池袋線清瀬駅南口より西武バス(久米川行)全生園前下車(3.2㎞:約15分)

・西武新宿線久米川駅より西武バス(清瀬行)全生園前下車(2.7㎞:約10分)

・JR新秋津駅より西武バス(久米川行)全生園前下車(2.2km:約10分)

1945年6月

静岡県御殿場市神山1915

・JR御殿場線岩波駅下車徒歩5分

・三島駅からタクシーで約40分

1930年11月

岡山県瀬戸内市邑久町虫明6539

・岡山ブルーライン虫明ICで降りてすぐ右折、その後は標識に従い邑久長島大橋、邑久光明園を経由して長島愛生園へ。虫明ICから愛生園まで5km、10分。

・JR赤穂線邑久駅下車、邑久駅前バス停から東備バス愛生園行き(所要時間47分)。東備バスの愛生園乗り入れは平日1往復、休日は3往復。

1909年4月

(1941年に国立移管)

岡山県瀬戸内市邑久町虫明6253

・JR赤穂線邑久駅下車、東備バス(瀬溝・愛生園行)光明園下車または瀬溝下車タクシー約7分

・国道2号線接続の岡山ブルーライン虫明ICを降りてすぐ右折。その後は標識(邑久長島大橋)に従って進み、邑久長島大橋を渡れば、まもなく当園(虫明ICより約5分)

・JR岡山駅下車、赤穂線乗り換え邑久駅下車、当園までタクシー20分

・バス利用の場合は、邑久駅より東備バスで愛生園行に乗り「光明園」で下車

1909年4月

(1941年に国立移管)

香川県高松市庵治町6034-1

JR予讃線高松駅下車、高松港・県営第一浮桟橋より官有船にて約20〜25分

1909年4月

(1941年に国立移管)

熊本県合志市栄3796

・JR鹿児島本線上熊本駅下車、熊本電鉄(北熊本乗換)にて再春荘病院前駅下車[約30分]

・熊本空港より産交バスにて熊本交通センターへ、電鉄バス(菊池温泉行)乗換にて再春荘病院前下車[約80分]

・熊本空港よりタクシーで約35分

・九州自動車道(植木インター)より国道3号線~国道387号線を車で約30分

1935年10月

鹿児島県鹿屋市星塚町4204

・鹿児島空港から車で約90分(東九州自動車道利用)

・鹿屋バスセンターから〈名貫町経由〉南、芝山行バスで 「敬愛園東口」下車(7.8㎞)

・鹿屋バスセンターから〈星塚敬愛園経由〉南、芝山行バスで「敬愛園前」下車(8.5㎞)

・鹿屋バスセンターからタクシーで約15分

1943年4月

鹿児島県奄美市名瀬和光町1700

・奄美空港より名瀬行特急バスにて40分、浦上だいわ前バス停下車、徒歩20分(直通2本45分 和光園前バス停下車)

・名瀬中心部発「しまバス」にて10分、和光園前バス停下車

・名瀬港よりタクシーで10分

1938年11月

(1941年に国立移管)

沖縄県名護市字済井出1192

・那覇市より琉球バス(名護行き西線)に乗車、所要時間約2時間20分(約70㎞) または那覇空港より沖縄高速バスにて約1時間40分、名護バスターミナル(終点)で下車

・名護バスターミナルより屋我地線に乗り換え、済井出バス停下車、徒歩15分(所要時間30分・1日6便運行)

・タクシー利用の場合、名護市より約25分

1931年3月

(1941年に国立移管)

沖縄県宮古島市平良字島尻888

・宮古空港からタクシーで約20分

・宮古空港「平良港向け」乗車、平良港で「池間一周線」に乗り換え、「南静園」下車

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(4)「らい予防法」によるハンセン病政策

 日本は第二次世界大戦の敗戦後、「人権の留保」を含んでいた大日本帝国憲法を廃止し、「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」をうたう日本国憲法が制定される。日本国憲法の第3章(10条~40条にかけての全31条)は、通称「人権のカタログ」とも呼ばれる規定である。第1章でも述べたように、ハンセン病患者は長らく「空気」のように扱われ、挙句の果てに、ハンセン病当事者の人権を大きく制限する「らい予防法」が制定される。1945年と言えば、国際的に見ると、プロミンの薬効発見報告により、既に〈可治の時代〉へと突入している。日本は第二次世界大戦の戦後処理により、少しその時代が遅れるといえども、1947年には既にプロミンが療養所で実験的に一部の患者に使用されていたという。しかしながら、なぜ「らい予防法」を戦後に制定する必要があったのか。それを見ていきたいと思う。

 終戦直後の日本は、GHQ(連合国軍総司令部)の支配下に置かれていた。そのため、戦後すぐの公衆衛生政策は、GHQの機関であるPHW(保健衛生福祉部)が担当していた。ハンセン病問題検証委員会は、GHQ-PHWの最大かつ喫緊の課題につき、結核、赤痢・チフスなどの消化器系感染症や性病の予防にあったとまとめている。占領軍の健康の維持や社会不安の除去、治安維持のための疾病予防が、PHWには求められた。そのため、慢性の感染症には対応が遅れがちで、ともするとハンセン病も対応にも遅れが見られたと予測できる。結核は、戦後の劣悪な環境の中で、大量の患者の発生が予測されていた。また、性病に対しては、街娼などを通してアメリカ兵への感染が増加したため、PHWはその対策に取り組まざるを得なかった。しかし、ハンセン病に対しては、それまでの「無らい県運動」などの結果、多くの患者が療養所へと収容されており、新規に大量の患者が発生するという心配が少なかった[298]とされている。したがって、PHWのハンセン病に対する関心は低くなっていたのではないかと考えられる。

 PHWは、1949年6月11日、アメリカ太平洋陸軍総指令部幕僚部高級副官部に対する報告のなかで「ハンセン病は日本では重要な衛生上の問題ではない」と断言し、その理由として「公的に維持された施設への隔離、補足的な食料の配給、治療におけるプロミンのような近代的な薬品の使用を含む近代的管理法は有効である」と述べている。また、日本の国立ハンセン病療養所について「どんな地域も入院治療ができなくて苦しまないように戦略的に配置されている」と日本の隔離政策を評価している[299]。PHWが日本の隔離政策について肯定するような評価を下しているのには、プロミン普及への期待が存在していた[300]。患者を隔離したうえで、プロミンを投与すれば、日本のハンセン病問題は解決することが可能という現実的な判断のもと、隔離政策に起因する人権問題には言及しなかった[301]。つまり、GHQは、日本のハンセン病隔離政策を改善するという明確な意思を持たなかったと言える。

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 日本の戦後ハンセン病政策の原型を作ったのは、GHQではないことは明確である。GHQは、所属の兵士らを守るために結核や性病などの公衆衛生には力を入れたものの、ハンセン病政策に関しては黙認していた。この結果から、戦後の「らい予防法」は日本人の手で作られたことになる。

 では、プロミンの完成などの社会的潮流の変化によって、それまでの「癩予防法」下での隔離政策を根本的に変革しようとする動きは日本では見られなかったのだろうか。これに対する答えとしては、1948年11月27日に行われた第3回国会衆議院厚生委員会での、委員外出席者である厚生省医務局長東龍太郎[302]の発言が挙げられる。ハンセン病の根本的対策の確立が議題に上った際に、東は『…プロミンの製剤は、国内において生産がされるように相なりました…』[303]という発言に続き、『…癩というものは、普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、癩療養所に一生を送らせるのだというふうな考えではなく、癩療養所は治療をするところである、癩療養所に入つて治療を受けて、再び世の中に活動し得る人が、その中に何人か、あるいは何百人かあり得るというようなことを目標としたような、癩に対する根本的対策―癩のいわゆる根絶策といいますか、全部死に絶えるのを待つ五十年対策というのではなく、これを治癒するということを目標としておる癩対策というふうなものを立てるべきじやないかと私ども考えております』[304]と答弁している。東は、ハンセン病に対する特効薬のプロミンが国内で製造されるようになったことに関連させ、ハンセン病の治療と社会復帰を目的にしたハンセン病対策をするべきだと、まさしく「正論」を述べている。

 また、翌年の1949年5月6日での第5回国会衆議院厚生委員会で、東は『癩療養所というものを大体病院と考えることが、根本の間違いであります。癩の療養所は、とにかく今までの考えでもつてしますれば、これは病院ではないのでありまして、病院というならば病気を治療することを目的とする所であるのに、確実に治療し得るという方法を持たずして患者を集めるということは、これは病院ではない。結局その病人を幽囚するというか、隔離する場所にすぎなかつたのであります…』[305]と述べている。東は医者であることから当時の国際社会も知っていたと考えられ、それも相まって当時の日本としては少数派である「旧来の隔離政策からの転換」論者となっていた。

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 東は、1947年にも『最近におきましては、癩治療ということに對して、非常に大きな光明を見出しつつありますから、治療を目的とするところの全癩患者の收容ということを、一つの國策としてでも取上げていくようにいたしたいというふうに私ども當局としては考えております』[306]と述べており、終戦直後には既に、隔離から転換し、治療のための収容の必要性を表明している。当時の日本にも、隔離するばかりで治療を行わない日本のハンセン病政策に疑義を唱える者もいたことが分かる。しかしながら、このような反対意見も「黙殺」され、1953年には「らい予防法」が制定されることになる。

 プロミンが実験的に用いられるようになってから、日本では、軽快退所[307]する入所者が続出する[308]。このような状況を鑑みて、厚生省は方針転換案を表明しているのだが、それに対して、光田は「軽快者だとて出してはいけない」と猛反発している。光田は「ライに関するかぎり予後の経過を十年見なければ正しい判定ができないというのは私の鉄則である」と言い張り、プロミンによる治癒を認めようとはしなかった。軽快退所者が相次いでいる状況になりつつあっても、「陰性になったから、直ちに全治したものの、伝染しないものとして放免するのはライ予防策の逆行である」「患者を解放することは非常に慎重でなければならない。軽率に解放を叫ぶことはせっかくここまで浄化せられて来た国内を再びライ菌で汚染させるに等しい暴挙といわねばならぬ」と隔離政策の継続を繰り返し主張している[309]

 そして、厚生省の意向と対を為すような隔離の強化を図る法改正を画策した。光田は、1950年の第7回国会衆議院厚生委員会で、隔離の強化について述べるとともに隔離法の必要性を説いている[310]。翌年1951年には、第12回国会参議院厚生委員会に、光田健輔(長島愛生園長)のほか、宮崎松記(菊池恵楓園長)、林芳信(多摩全生園長)、小林六造(国立癩予防研究所長)、久野寧(名古屋大教授)の計5名が参考人として招かれて意見を述べている。

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 光田・林・宮崎の3人は、「我々が推定いたしますると、大体一万五千の患者が全国に散在して、そのうち只今は約九千名の患者が療養所に収容されておりますから、まだ約六千名の患者が療養所以外に未収容のまま散在しておるように思われます。でありますから、これらの患者は周囲に伝染の危険を及ぼしておるのでございますので、速かにこういう未収容の患者を療養所に収容するように、療養施設を拡張して行かねばならんと、かように考えるのであります(林)」[311]、「…癩の数を出しますことは古疊を叩くようなものでありまして、叩けば叩くほど出て來るのであります。ただ出て來ないのは叩かないだけのことで、もう少し徹底的に叩けばもつと出て來る……從來どうして古疊を叩かなかつたかと申しますと、叩いて塵を叩き出すと、塵のやりどころがない。病床はいつも満員で、実は私どもの所も満員続きでありまして、折角きれいにしようとしても叩いた塵を持つて行く所がない。それで衛生当局は幾ら叩き出しても始末に困ると、むしろ叩かないでそつとして置いたほうがいいということを言われます……患者のいわゆる自由主義のはき違えで、癩患者といえども拘束を受けるいわれはない、自由に出歩いたつて何ら咎むべきでない、結核患者を見ろ、同じ伝染病で、結核患者は自由に出歩くことができるのに、癩患者が出歩いてはいけないというようなことはないというようなことを申しますような状態であります。これにつきましては一つ国のほうで十分お考え下さつて、如何にしたらこの療養所がこれを完全に断行し得るか……何故に癩患者は隔離しなければならないか、隔離を以て臨まなければならないかという、結核患者はなぜ隔離しなくてもいいかということの根本問題を一つはつきりして、私どもは隔離の根本理念を確立して頂きまして、患者が如何ように申し参りましても、こういう方針だと私ども確信を以て患者の隔離を断行できるような理論的な裏付けをして頂きたい……戰争中並びに戰後におきましては当然癩が増加するであろうということが考えられます。併し戰争状態の回復に從いまして癩も又当然減少して來るとは考えますが、この際癩予防対策の度を決して緩めないように、最後の完全収容に向つて努力を傾注して頂きたい…(宮崎)」[312]、「……私は沈澱している全国の患者を極力療養所に入れるためには法の改正をする必要があるという意見であります……療養所の治安維持ということについて、いろいろ現状を調べましたり、強制収容の所をこしらえたり、各療養所においてしておりますけれども、まだまだこれが十分に今のところ行届きませんので、こういうようなことをもう少し法を改正して鬪争の防止というようなことにしなければ、そういうような不心得な分子が院内の治安を紊し、そうして患者相互の鬪争を始めるというようなことになるのでありますから、この点について十分法の改正すべきところはして頂きたい(光田)」[313]と、異口同音に隔離強化を求める意見陳述をしている。このいわゆる「三園長発言」が、後の「らい予防法」制定に繋がったと大きく批判される。

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 また、光田は同じ委員会で「癩患者それ自身もアメリカあたりでは結核、梅毒において選挙権、被選挙権が一つも侵害されない。癩でも近來は与えられている。そうすると被選挙権も癩患者にあつて然るべきものであるというようなことを申すのがございますのです。患者間の有力者というものはそういうことを世界に宣伝しておる。ところが癩と結核は全く別でありまして…」[314]とハンセン病患者の選挙権に言及し、また、ハンセン病の感染源について「…皮膚の上皮膚の〇・一ミリか〇・二ミリの下には黴菌の膿があるのですから、その黴菌の猛毒質の群集があるのです。鼻の粘膜からは出、口の粘膜からは癩菌が飛ぶというようなことになつておるのであります。それでこういうようなわかりもせんところの学者がおつて、そんなつまらんことを患者に言うておるのですから、そういうふうなことは誠に私は遺憾千万だと思うのです。結核及び梅毒の病巣と癩の病巣との差は、それは紙一重の下にある菌と、それから深部にある菌との差があろうと思うのです。そんなに上皮が蔽つておるものは開放的でないというふうには言えないと思うのです。蚊にもくちばし、それから蠅にも血を吸うくちばしがあるし、それからダニ、疥癬ですね、これらによつて血と共に癩菌が運搬せられる」[315]と、ダニ・ハエ・蚊を介してハンセン病に感染すると裏付けのない発言をして、ハンセン病に対する恐怖心をあおる[316]

 さらに、ハンセン病患者の収容について「知事が伝染の危険ありと認めるところの者は療養所に収容するということになつております……元は警察権力の下にあつたのでありますけれども、今日は一つも経費がないと言つたらおかしいですけれども、主に保健所の職員に任せてあるようなのであります。これは以前よりは非常にこのために収容もむずかしいようになつております。この点について、特に法律の改正というようなことも必要がありましよう。強権を発動させるということでなければ、何年たつても同じことを繰返すようなことになつて家族内伝染は決してやまない」「手錠でもはめてから捕まえて、強制的に入れればいいのですけれども、今のなんではそれはやりかねる」「どうしても収容しなければならんというふうの強制の、もう少し強い法律にして頂かんと駄目だ」と、警察権力を用いた強制収容についてほのめかし、収容権限の強化と必要性を力説している。

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 このような、光田、宮崎、林という3人の園長によって批判された厚生省は、隔離政策の方針転換を断念せざるを得なくなる。日本らい学会(現:日本ハンセン病学会)も、三園長の発言を支持し、その結果、厚生省も政府も、光田らの見解に従うことになった。1950年2月、厚生省は医務局長通達122号で「患者懲戒検束規定」は憲法違反でないことなどを指示する。また、同年の3月、刑政長官も「新憲法下でも癩予防法施行規則(懲戒検束規定)により必要な限度で懲戒処分を行うことは適法である」と答弁している。1952年11月には、時の首相、吉田茂が「憲法に抵触しないし、懲戒検束も可能。治癒による退所は当然のことで規定されておらず、小児に対する伝染力は相当強い」との答弁書[317]を出している。このような経過をたどり、ハンセン病当事者の激しい抵抗にあいながらも、1953年、戦前の「癩予防法」を改正して「らい予防法」を制定するに至る。

 ハンセン病当事者に対して「最大の悪法」とも言える「らい予防法」とは、どのような法規を持っていたのかについて見ていきたい。

 「らい予防法」は、第1章から第6章までの全28条で構成された法律である。法律の目的を「らいを予防するとともに、らい患者の医療を行い、あわせてその福祉を図り、もつて公共の福祉の増進を図ること」[318]とし、また、国及び地方公共団体が、ハンセン病の予防や患者への医療につとめること、ハンセン病に関する正しい知識の普及を図ること[319]、患者又は患者と親族に対しての不当な差別的取扱を禁止すること[320]などを規定していることからも、表向きはそれまでの「癩予防法」のような人権を不当に制限した上で蹂躙するような法律ではなくなっている。

 しかし、旧来の「癩予防法」を踏襲しているため、「らい予防法」も療養所からの退所規定を含んでいない。それだけでなく、「らい予防法」では外出の制限も強化され、親族の病気や葬儀と本人が裁判に出廷する場合に限った[321]ため、ハンセン病患者として一度療養所に入所してしまうと一生出てこられないような構造となっていた。

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 表向きでは「人権尊重」のもと、患者の治療を行う法律のように見えるが、療養所の生活はどのようなものであったのか。入所者にとって一生を過ごす「終の棲家」となる(せざるを得ない)療養所とは、どのようなものか。ハンセン病療養所は、周囲を高いコンクリート壁や鉄条網を張った垣根などで囲われ、蒸気を供給するタイプの暖房設備で、そのためのジュラルミン製の輸送管が頭上に張り巡らされていた。園内の設備として、宿舎、病棟のほか、納骨堂、火葬場、優生手術のための部屋、監禁室(栗生楽泉園では特別病室「重監房」[322]。菊池恵楓園に隣接されたハンセン病患者用の刑務所「熊本刑務所菊池医療刑務支所」では保護房、沈静房などとも呼ばれていた)などがあり、刑務所と似たような設備を持っていた。一度入れば出られないという点からすると、刑期が終われば出所できる刑務所とは異なる。しかしながら、管理の仕方は刑務所と同等かもしれない。

 まず、ハンセン病患者は療養所に入所すると、個人の識別番号をつけられる[323]。また、本名が知られると家族などが差別の対象に遭うという配慮から入所者は偽名(園名)が付けられた[324]。それは、入所者の先輩から言われたり、職員に言われてつけられたり、自分でつけたり、家族から言われたりなど、様々な理由で「偽名」が園内では用いられた。ハンセン病問題検証委員会が入所者に対して行った調査では、686人に聞き取りを行い、その半数に当たる305人が園名を使用したと回答している。入所年を10年ごとに区切った調査では、園名の使用が戦後に多く偏っていることが明らかになっている[325]

図8 園名使用の年代別とその使用理由

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 入所時に所持していたお金は取り上げられて、園内でのみ通用する「園金」[326]を使用することが強制された。私服の着用も許可されず、共通の「囚人服」を強要される。

 さらに、園内で結婚することも可能だったがその条件として、「不良な」遺伝子を存続させないために、男性には「断種手術」、女性には「卵管結さく」という優生手術が行われ、それでも妊娠してしまった場合には、強制的に堕胎(人工妊娠中絶)が実施されていた[327]。その他、入所時には「解剖承諾書」を書かされた。菊池恵楓園では、1911年から1965年に死亡した入所者約2400人のうち、少なくとも389人の入所者が解剖されていたことが明らかになっている。しかし、身元を特定できない人も含めると解剖遺体が479体にもなり、その中には乳児や死産の赤ちゃんも含まれていたという。遺体を解剖したのは、当時、菊池恵楓園で働いていた熊本医科大学の医師らで、昭和初期に熊本医科大で43人の遺体を解剖し、20体の骨格標本を作製していたことが2013年に分かっている[328]

 療養所内での患者の暮らしで最も重要なものは「患者作業」と呼ばれる入所者自身の手で行われる様々な作業であった。炊事、洗濯などの日常的なもののほか、「病人」の看護、介護、土木作業、建設作業、畜産、農業、さらには、死者の火葬や埋葬までも入所者が行っていた[329]。このような作業には「園金」が「作業賞与金」として支払われる仕組みとなっていた。もちろん園の外では使えない。入所者たちはこの患者作業によって、症状を悪化させる者もいた。

 以上のような生活が、どの療養所の中でも行われていた。「基本的人権の尊重」という憲法の理念が、どこにも見られないような現状であった。園内で患者作業が行われた理由について、三木賢治は『少ない職員と低コストで療養所を運営するための方策にほかならない』として、『このシステムを支えていたのは入所者を病人ではなく労働力と考える思想であった。従って、療養所では重症者の看護、介護を担わせるために軽症者が必要とされていた』『退所規定がなかったのも、治癒した患者を退所させていたのでは療養所の運営が立ち行かなくなるからだ』[330]と考察している。ある入所者が「患者立療養所」と揶揄したというのも無理はない。「療養所」とは名ばかりの、まさしく「刑務所」であったと言えるような実情である。

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(5)小括

 日本では、「癩予防に関する件」に始まり、「癩予防法」、それを改正(改悪)した「らい予防法」のもと、1907年から1996年まで、およそ90年間ハンセン病に対しての強制隔離政策が行われてきた。「癩予防に関する件」が対象者を限定したのに対し、「癩予防法」では、すべての患者を対象にしていた。

その性格は戦後になっても継承され、「らい予防法」では、さらに外出の制限が為される。患者作業によって園内の運営を回転させ、低コストでの強制隔離を実現した。1948年に制定された「優生保護法」と組み合わせることによって、療養所内での優生手術に法的根拠が与えられるなど、隔離政策を継続するための法律が次々と整えられていく。「三園長発言」などの妨害に対してのハンセン病当事者の抵抗もむなしく隔離が継続。「らい患者救済及び社会復帰国際会議(1956)」「第7回国際らい会議(1958)」「第2回WHOらい専門委員会(1959)」などで、日本の隔離政策について是正を迫る内容が決議されるが、日本は無視を決め込み、隔離政策の大幅な見直しが図られることは無かった。

1964年に厚生省結核予防課が「らいの現状に対する考え方」をまとめ、その中に「現行法についての再検討が必要」とする文言[331]が盛り込まれるも、日本の政策は変更されていない。廣畑圭介は『ハンセン病当事者の社会復帰と「らい予防法」の改正問題は、国の隔離政策によって創出された偏見と差別を解消しなければ前進しない状況へと陥っていた。そのため、厚生省は社会復帰に代わる園内処遇の改善を重視し、法改正を遅らせることとなった』[332]と考察する。1970年代、1980年代には度々「らい予防法」の改正案が提出されるも、「らい予防法」の改正には至っていない[333]。また、「らい予防法」の改正が遅れた背景には療養所側の問題もある。「らい予防法」には療養所についての条文[334]がある。つまり、その後の取り決めが何もない状態で法律が廃止されでもすると、療養所自体が法的な存在根拠を失うことになり、入所者の生活が立ち行かなくなる可能性もあった[335]。「入園者の生活を守るために法律の存続を」という療養所側の宣伝も法律改正の妨げとなった可能性は否定できない。

日本のハンセン病法制による「絶対隔離」は、光田などの非科学的根拠を持ち出す「絶対隔離論者」が与える情報やその「権威」に国家が屈し、後に国際社会の動きに反して隔離を継続、社会復帰よりも療養所内を改善していくというものだった。その始まりは、明治日本の「国家の体面」であり「欧米列強と並ぶ強国づくり」であったとしても、戦後の「らい予防法」制定や存続の根拠にはならない。ましてや「基本的人権の尊重」をうたう日本国憲法のもとで「ハンセン病当事者の人権」を侵害する根拠にはできない。

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  1. 「ターミナル」とは日本語で「終末期」という意味で、ターミナルケアとは人生を終える時期の生活の質を高めるケアのこと。いわば治療が目的ではなく「残された余生を充実させる」という考え方。↩︎
  2. 森修一「世界のハンセン病政策に関する研究Ⅰ―ハワイにおける絶対隔離政策の変遷―」(日本ハンセン病学会雑誌86巻3号、2018)p.189及び南里隆宏「インド、ブラジル、インドネシアにおけるハンセン病対策の現状と当事者団体の役割に関する一考察」Atomi観光コミュニティ学部紀要4号、2019、p.18。↩︎
  3. コレラ、腸チフス、赤痢、ジフテリア、発疹チフス、痘瘡、デング熱、ペストの8種類である(伝染病予防法第1条)。――村上貴美子「「癩予防ニ関スル件」の制定要因に関する考察」社会福祉学部研究紀要16巻2号、2013、p.39および国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書. 明治30年(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788003/40)」。↩︎
  4. 鈴木靜「ハンセン病医療政策と患者の人権―「癩予防ニ関スル件」制定に着目して」日本の科学者46巻1号、2011、p.736↩︎
  5. 当時の社会では、江戸時代以降、急性感染症であるコレラや赤痢、腸チフスなどが繰り返し流行して多数の死者を出していた。そのため、慢性感染症であるハンセン病に対しての関心は低く、伝染病予防法の適用対象ともなっていなかった。↩︎
  6. 鈴木:前掲194、p.735。↩︎
  7. 当時のハンセン病患者は路上で物乞いをして生活していたり、家の中で隠れて生活していたりすることが多く、極めて過酷な状況に置かれていた。生活が奪われ栄養も十分に取ることができず、医療も受けられないといった状態に置かれていることが多かった。そうした状況に置かれた患者の医療や生活を日本の国家も正面から受け止めようとしなかった。↩︎
  8. ハンセン病になることで家から追放され、やがて浮浪者となって放浪の旅に出たハンセン病患者のこと。古くから「浮浪癩者」は存在した。四国遍路に赴いたハンセン病患者もおり、病気の治癒を願う者、地域社会の目を逃れるための遍路を行う者、死に場所を求める者など、様々な要因のもとで遍路は行われたという。関根「近代の四国遍路と「癩」・病者」によると、1876年から1945年にかけての遍路中の死者745人のうち、具体的な病名を確認できた212人の中で、ハンセン病患者は87人であった。次いで肺結核25人、梅毒22人となっている。――加賀谷:前掲10、p.66及び関根隆司「近代の四国遍路と「癩」・病者―愛媛県における統計的研究―」アジア地域文化研究11号、2015、p.1、p.6、pp.17-19。↩︎
  9. - 30 -
  10. 加賀谷:前掲10、p.66。↩︎
  11. 1877年12月6日付『朝野新聞』が「東京府庁より施療券付与の癩病者を治療申し付けられたる有名の後藤昌文先生」と報じているように、当時、後藤昌文はハンセン病医療の第一人者であった。後藤昌文は漢方医で、1872年には、東京の柏木嶋子町に私設癩病舎を開設している。「西洋では大に其伝染を恐るヽ事であるが容易に伝染る者でもありません。其證拠は夫が其疾にて妻に伝染らず妻が其疾にて夫に伝染らず永く偕老同穴の契を完結ものを常に見聞す。併し決て伝染らぬと申訳ではないから皮膚病人は可成的癩者に近よらぬが宜しい」とも述べているように、後藤はハンセン病の感染を否定せず、感染力は弱いが感染する可能性はあるという認識をもっていた。ハンセンによるらい菌の発見を知っていたかは不明であるが、経験と感覚からハンセン病の伝染性について知っていたと思われる。ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.44。↩︎
  12. 1996年に「らい予防法」が廃止されると、一般病床を編入し、2002年には一般病院として施設が再整備された。現在は外来診療とともに療養型病棟およびホスピス病棟を備えた病院として、一般財団法人神山復生会によって運営されている。――ハンセン病制圧活動サイト「神山復生病院・復生記念館(https://leprosy.jp/japan/sanatoriums/sanatorium06/)」↩︎
  13. 1942年閉鎖。ハンセン病患者の救済に尽力するも運営困難となったため。入園者55名は全生園へ収容された。高松宮記念ハンセン病資料館運営委員会『ハンセン病資料館』(2002)p.25、pp.69-73。↩︎
  14. 1941年閉鎖。運営困難となったため。入園者58名は九州療養所へ収容された。同上、p.25およびpp.69-73。↩︎
  15. 1900年、移転により「琵琶崎待労院」と称した。↩︎
  16. 1872年、明治政府は、ロシア皇太子の来日前日、浮浪者を本郷加賀邸空長屋(本郷加賀屋敷)に強制収容する。この本郷加賀邸が、後に「東京市養育院」と名前を変える。強制収容された浮浪者の中には、ハンセン病患者も含まれていたというが、これはハンセン病患者のみ狙った政策ではなく、偶然にもハンセン病患者が含まれていただけである。↩︎
  17. 近藤祐昭「ハンセン病隔離政策は何だったのか」四天王寺大学大学院研究論集7号、2013、p.7。↩︎
  18. いわゆる「領事裁判権の撤廃(1894)」と「関税自主権の回復(1911)」である。時期的に、前者が関係していると思われる。↩︎
  19. - 31 -
  20. 内地開放ともいう。外国人居留地に住む外国人の居住、旅行、外出の制限を撤廃し、日本国内における居住、旅行、営業を自由にすることをいう。江戸幕府による安政の5か国条約では、外国人は開港場、開放市場に設けられた外国人居留地における居住及び10里四方の外出以外、幕府の許可のない日本国内の移動は禁じられていた。明治維新以降も方針は続くが、お雇い外国人による公務外出が頻繁に行われるようになると、徐々に形骸化していく。しかし、不平等条約による治外法権や領事裁判権が存在している以上、日本人とのトラブル防止のためには、外国人を一定の地域に隔離しておく必要もあった。福西征子『語り継がれた偏見と差別―歴史のなかのハンセン病』(昭和堂、2017)p.230。↩︎
  21. ハンセン病フォーラム:前掲15、pp.342-343及び三木賢治「ハンセン病と情報遮断―隠された真実に迫る」東北文化学園大学総合政策学部紀要総合政策論集17巻1号、2018、p.103。↩︎
  22. 「ハンセン病患者が国辱的」という印象を強くした要因の1つに、「大使館事件(1906年)」というものがある。1906年、イギリス大使館の門前近くで重症のハンセン病患者が行き倒れていたのを大使館職員が発見し、それを見たイギリス大使が外務省に対して批判を行ったという事件だ。イギリス大使は「貴国はかかる重症癩患者の一人さへ救護せずして放任し、彼の重病者の意の如くに徘徊せしめて省みざるは甚だしく癩患者に対して冷胆ならざるや。加ふるに貴国は世界の一等国なり。その対面上も充分考慮せらるる余地あり」と強く批判している。重症のハンセン病患者の救護もしていない日本国家に対する人道上・対面上への批判である。成田:前掲12、p.44および近藤:前掲206、p.6。↩︎
  23. 1897年、ドイツのベルリンで開催された「第1回国際らい会議」では、当時のハンセン病の疫学や予防方法等を次のように決議している。日本からは北里柴三郎、土肥慶蔵が参加していた。

    1. ハンセン病は、「らい菌」による感染症であり遺伝性はないこと
    2. 患者を一定期間治療のために施設等に隔離することが望ましいこと
    3. ノルウェーと類似する状況においては、法律上の措置の必要性が強調されたこと
    4. ノルウェー方式が有効であること

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    以上が決議された。当時ノルウェーでは、ハンセン病の予防については、一般法の枠組みで予防活動を行い、病状の悪化している者を、病院に隔離し治療にあたらせた。その際にも、放浪している患者に対する強制隔離と他の者に対する任意隔離を行っていた。実際に、病院等での看護は家族が行い、患者の病状が改善したら家に帰すという方法である。この政策実施前後、ノルウェー国内の患者が減少した。これを「ノルウェー方式」(相対的隔離)と呼び、会議においても絶対隔離の「ハワイ方式」ではなく、「ノルウェー方式」が有効であると決議されている。この時点では、ハンセン病対策は、隔離が有効であるとしているものの、その中身は絶対隔離ではなく相対的隔離である点が特徴である。福西:前掲208、p.202および財団法人日弁連法務研究財団ハンセン病問題検証委員会:前掲140、p.610。↩︎

  24. 鈴木:前掲194、p.736。↩︎
  25. 福西:前掲208、p.193。↩︎
  26. 鈴木:前掲194、p.736。↩︎
  27. 根本正(1851~1933)。アメリカ合衆国への留学経験から英語に堪能であった。衆議院議員として、不成立に終わった救貧法案(1902)に関与し、また、未成年の禁酒法、禁煙法の成立、ヘボン式ローマ字、義務教育の普及などに尽力した。福西:前掲208、p.230。↩︎
  28. ハンセン病フォーラム:前掲15、p.343および鈴木:前掲194、p.737および福西:前掲208、p.203。↩︎
  29. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.54。↩︎
  30. 斎藤寿雄(1848~1938)。医師、衆議院議員。群馬県医師会会長などを歴任。福西:前掲208、p.230。↩︎
  31. 鈴木:前掲194、p.737および同上、p.212。↩︎
  32. 福西:前掲208、p.212。↩︎
  33. 山根正次(1857~1925)。欧州留学の経験をもち、警視庁警察医長、警視庁第三部長、東京市会議員を歴任。1902年、衆議院に当選する。国立国会図書館「山根正次関係文書」(https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/yamanemasatsugu.php)↩︎
  34. - 33 -
  35. 「花柳病予防法(1927年)第1条」によると、花柳病とは、梅毒や淋病、軟性下疳の3つの病気(性病)を定義している。国立国会図書館デジタルコレクション「官報. 1927年04月05日」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956536/1)。↩︎
  36. 山根はこれ以降、モロカイ島(米国)での隔離の有用性を幾度となく強調する。つまり、「第1回国際らい会議」で決議された「ノルウェー方式」ではなく、絶対隔離を主張するもので、主に取り締まりの観点から主張されていることが特徴である。さらに、ドイツでは、法的根拠を持ってハンセン病対策に臨んでいること、特に急性感染症と同様にハンセン病を扱っていることを強調している。鈴木:前掲194、p.737。↩︎
  37. 鈴木:前掲194、p.737および帝国議会議事録検索システム「第21回帝国議会衆議院伝染病予防法中改正法律案委員会 第2号 明治38年2月16日」(https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=002112631X00219050216&page=1&spkNum=0&current=3)↩︎
  38. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.54。↩︎
  39. 大井卜新、籾木卿太郎、青柳信五郎、青地雄太郎、波多野傳三郎、山根正次、武市庫太、島田三郎、大久保辨太郎の9名。帝国議会議事録検索システム「第22回帝国議会衆議院癩予防法案委員会第1号 明治39年3月25日」(https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=002213800X00119060325&page=1&spkNum=0&current=2)↩︎
  40. 同上。↩︎
  41. 同上。↩︎
  42. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.58。↩︎
  43. 鈴木:前掲194、p737。↩︎
  44. 同上p.737および福西征子『語り継がれた偏見と差別―予防法以前の古書に見るハンセン病』(国立療養所松丘保養園、2012)p.90。↩︎
  45. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.58。↩︎
  46. 鈴木:前掲194、p.738。↩︎
  47. 村上:前掲193、p.44。↩︎
  48. 同上、p.44。↩︎
  49. 同上、p.45。↩︎
  50. - 34 -
  51. 「第2回国際らい会議」では第1回国際らい会議での決議をふまえ、らい菌は感染力が弱いこと、隔離には家庭内隔離措置もあり、患者が親の場合には子どもは感染しやすいので分離すべきこと等の確認がなされた。なかでも、ノルウェー等での成功をふまえ、ハンセン病患者が同意するような生活状態のもとにおける隔離方法が望ましいと指摘し、その上で、放浪する患者等一部の例外について強制隔離を勧告した。続く「第3回国際らい会議」では、ハンセン病の蔓延していない国においては、住居における隔離はなるべく承諾の上で実施することを原則とし、隔離は人道的に行うことと、患者はできる限り家族に近い場所におくことを確認している。その上で、貧困者、住所不定の者等については、隔離して十分な治療を施すこと。公衆に対してハンセン病は感染性疾患であることを知らしめる必要があるという内容が決議される。「第4回国際らい会議」では、施設隔離、家庭隔離、村落隔離に分けた上、施設隔離について「ある国では強制隔離は実施され、推奨されるべきものとして認められている。このような所では、患者生活の一般的条件は自発的隔離が実施されている場合とできる限り同様でなければならず、合理的退所期も保障されなければならない」と指摘している。あわせて「中央施設1か所設けるより、患者の家庭にできるだけ接近させるために地方療養所を多数設置することが望ましい」とも指摘し、隔離自体は否定しないものの、公衆衛生の一環として予防、治療がおこなわれなければならないことを重視している。このように国際社会では、人道的な隔離へと推移していくが日本は全く逆の方向へと推移していく。ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、pp.611-614。↩︎
  52. 鈴木:前掲194、p.738および愛媛県「癩予防ニ関スル件」(https://www.pref.ehime.jp/h25500/4404/raiyobounikansuruken.html)。↩︎
  53. 行政官庁ニ於テ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ(第3条)↩︎
  54. 但シ適当卜認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ(第3条)↩︎
  55. 第四条 主務大臣ハ二以上ノ道府県ヲ指定シ其ノ道府県内ニ於ケル前条ノ患者ヲ収容スル為必要ナル療養所ノ設置ヲ命スルコトヲ得
    2 前項療養所ノ設置及管理ニ関シ必要ナル事項ハ主務大臣之ヲ定ム
    3 主務大臣ハ私立ノ療養所ヲ以テ第一項ノ療養所ニ代用セシムルコトヲ得↩︎
  56. - 35 -
  57. 第五条 救護ニ要スル費用ハ被救護者ノ負担トシ被救護者ヨリ弁償ヲ得サルトキハ其ノ扶養義務者ノ負担トス
    2 第三条ノ場合ニ於テ之カ為要スル費用ノ支弁方法及其ノ追徴方法ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム↩︎
  58. 内務省令第20号(明治40年7月22日)「公立癩療養所」

    道府県ハ左ノ区域ニ依リ其ノ区域内ニ於ケル癩患者ヲ入ラシムル為必要ナル療養所ヲ設置スヘシ。

    第一区域 東京府(伊豆七島、小笠原島ヲ除ク)神奈川県 新潟県 埼玉県 群馬県 千葉県 茨城県 栃木県 愛知県 静岡県 山梨県 長野県
    第二区域 北海道 宮城県 岩手県 青森県 福島県 山形県 秋田県
    第三区域 京都府 大阪府 兵庫県 奈良県 三重県 岐阜県 滋賀県 福井県 石川県 富山県 鳥取県 和歌山県
    第四区域 島根県 岡山県 広島県 山口県 徳島県 香川県 愛媛県 高知県
    第五区域 長崎県 福岡県 大分県 佐賀県 熊本県 宮崎県 鹿児島県(筆者注:1910年に沖縄県が追加される)

    前項療養所ノ設立地ハ第一区域ニ在リテハ東京府下、第二区域ニ在リテハ青森県下、第三区域ニ在リテハ大阪府下、第四区域ニ在リテハ香川県下、第五区域ニ在リテハ熊本県下トス

    附則 本令ハ明治四十年法律第十一号(筆者注:癩予防ニ関スル件のこと)施行ノ日ヨリ之ヲ施行ス

    明治四十年七月二十二日 内務大臣 原敬、国立国会図書館デジタルコレクション「官報. 1907年07月22日(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950564/1)」および国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書. 明治40年」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788053/167)および福西:前掲208、pp.298-299。↩︎

  59. - 36 -
  60. 外島保養院のあった場所は、当時は海抜ゼロメートル地帯で、療養環境として適していない立地条件だった。そのため、何度か他の場所への移転が計画されるが、その度に移転先の地元住民に反対され、移転を断念せざるを得なくなった。そこで、現地での増床が決定、1000人を収容するための工事を行う。1934年9月21日の室戸台風で、防波堤を越えて押し寄せた高波により施設が壊滅、院関係者187人(入所者173人、職員3人、職員家族11人:当時の入所者597人の約3割)と工事関係者9人が亡くなるという災害が発生する。療養所が復興するめどはたたず、9月下旬より各地の療養所へ患者を委託するという窮余の策が講じられた。その後、府内の候補地が決まらず、1938年、岡山県邑久郡の長島に移転し府県立療養所光明園として再興、1941年7月厚生省へ移管され、国立療養所の邑久光明園となる。大阪府「外島保養院について」(http://www.pref.osaka.lg.jp/kenkozukuri/hansen/sotosima.html)および福西:前掲208、pp.298-299。↩︎
  61. 1910年に「大島療養所」と名称を変更する。↩︎
  62. 1911年に「九州療養所」と名称を変更する。↩︎
  63. 田中:前掲26、pp.49-50および福西:前掲208、pp.298-299。↩︎
  64. 三木:前掲208、p.103。↩︎
  65. 田中:前掲26、p.50。↩︎
  66. 三木:前掲208、p.103。↩︎
  67. 「癩予防ニ関スル件」第9条には、「行政官庁ニ於テ必要ト認ムルトキハ其ノ指定シタル医師ヲシテ癩又ハ其ノ疑アル患者ノ検診ヲ行ハシムルコトヲ得 2 癩ト診断セラレタル者又ハ其ノ扶養義務者ハ行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ヲ求ムルコトヲ得 3 行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ニ不服アル患者又ハ其ノ扶養義務者ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ更ニ検診ヲ求ムルコトヲ得」とあるが、この条項以外は収容の費用に関する条項がほとんどである。↩︎
  68. 加賀谷:前掲10、p.67。↩︎
  69. 鈴木:前掲194、p.735。↩︎
  70. 加賀谷:前掲10、p.70。↩︎
  71. - 37 -
  72. 療養所独自の規則を備えている場合もあった。例えば、全生病院では入所者には「入院者心得」が示され、「博愛仁慈ノ精神ニ基キ各人相親和シ相互扶助ヲ念トスルコト」を誓約することに始まり、「職員の命」「喧嘩口論」「男女」「博戯賭事」などに関して禁止事項を羅列していたという。また、九州癩療養所の「患者心得」では、「第一条 患者は本所々定の規則命令に服従するの義務あるものとす」「第二条 患者は常に従順を旨とし、和衷共同宜しく精神修養を励み、衛生を重じ、男女の道を正しうし苟も所規を乱し、不穏の言動を流布する行為あるべからず」という入所者の内面に踏み込みつつ、起床―就寝時刻などの生活規範を列挙していた。個人の言動の細部にわたって監視するということが日常的に行われていた。田中:前掲26、p.54。↩︎
  73. 病院内に巡査派出所を新たに設置して患者の逃亡防止など監視の強化を図ったことへの抗議、必要品の購買(患者が申込み、職員が買いに行く)の問題や洗濯の回数、収入の確保など日常生活の改善を求める27項目の要求である。↩︎
  74. 鈴木:前掲194、p.738および田中:前掲26、p.56。↩︎
  75. 鈴木:前掲194、p.738。↩︎
  76. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.60および帝国議会議事録検索システム「第37回帝国議会衆議院本会議第32号大正5年2月24日」(https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=003713242X03219160224&page=3&spkNum=9&current=1)↩︎
  77. 帝国議会議事録検索システム「第37回帝国議会衆議院明治四十年法律第十一号中改正法律案委員会第1号大正5年2月25日」(https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=003713411X00119160225&page=1&spkNum=0&current=2)↩︎
  78. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.60。↩︎
  79. 大阪府『大阪府ハンセン病実態調査報告書』(2004)pp.118-119。↩︎
  80. - 38 -
  81. 第二条 懲戒又ハ検束ハ左ノ方法ニ依リ執行スル

     一 譴責 叱責ヲ加ヘ誠意改悛ヲ誓ハシム
     一 謹慎 指定ノ室ニ静居セシメ一般患者トノ交通通信ヲ禁ズ
     一 減食 主食並ニ副食物ヲ減給ス
     一 監禁 独房ニ監禁拘束ス↩︎

  82. 第八条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ譴責又ハ三十日以内ノ謹慎ニ処ス

     一 構内ノ樹木ヲ毀損シタル者
     二 家屋其他ノ建造物ハ備付品ヲ毀損又ハ汚涜シタル者
     三 貸与ノ衣類其他ノ物品ヲ毀損又ハ隠匿シ、若ハ構外ヘ搬出シタル者
     四 虚偽ノ風説ヲ流布シ人ヲ誑惑セシメタル者
     五 喧嘩口論ヲナス等所内ノ秩序ヲ乱シタル者↩︎

  83. 第九条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ三十日以内ノ謹慎又ハ七日以内ノ減食ニ処シ、若ハ之ヲ併科ス

     一 猥ニ構外ニ出デ、又ハ所定ノ無毒地ニ立入リタル者
     二 風紀ヲ乱シ又ハ猥褻ノ行為ヲナシタルモノ又ハ媒介シテ之ヲ為サシメタル者
     三 職員ノ指揮命令ニ服従セザル者
     四 金銭其他ノ物品ヲ以テ賭戯又は賭事ヲナシタル者
     五 違反者ニ対スル懲戒又ハ検束ノ執行ヲ妨害シタル者↩︎

  84. 第十条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ七日以内ノ減食又ハ三十日以内ノ監禁ニ処シ、若ハ之ヲ併科ス

     一 逃走シ又ハ逃走セントシタル者
     二 職員又ハ其他ノ者ニ対シ暴行又ハ強迫ヲ加ヘ、若ハ加ヘントシタル者
     三 他人ヲ煽動シテ所内ノ安寧秩序ヲ害シ、又ハ害セントシタル者↩︎

  85. - 39 -
  86. 第十一条 前条各号ノ一ニ該当シ必要アリト認ムルトキハ管理者ノ認可ヲ経テ三十日以上二ヵ月以下ノ監禁ニ処ス↩︎
  87. 三好:前掲42、p.72。↩︎
  88. 成田:前掲12、pp.73-74↩︎
  89. 見張りの目を盗んで踏み台を使って板塀を乗り越えたり、塀の下を掘り潜って行ったりすることもあったという。↩︎
  90. 田中:前掲26、pp.68-69。↩︎
  91. 光田が私費で近所の農家に里子に出したり、東京市の養育院に預けようとして養育費を請求されて連れ帰ったり、また親が乳児を東京市内にまで捨てに行き、子供が拾われるまで見届けたという話もあったという。ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.191。↩︎
  92. 同上、p.191。↩︎
  93. 同上、p.191。↩︎
  94. 小松裕「ハンセン病患者の性と生殖に関する言説の研究」(熊本大学文学部論叢93号、2007)p.26。↩︎
  95. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.192。↩︎
  96. 山川基・小笠原真・牟田泰斗「日本のハンセン病強制隔離政策と光田健輔」就実論叢39巻、2009、p.154。↩︎
  97. 粗野な行動をする男性患者が女性患者に気に入られるために行動を自律するようになり、あるいは療養所内にパートナーがいることで、患者の中に「相手を置いて逃げるのは失礼だ」等の心理が働き療養所からの逃走・脱走の類が減るなどして、療養所管理者および関係者の負担が減少していくという具合である。↩︎
  98. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.65。↩︎
  99. - 40 -
  100. 原文は旧字体であるが、読みやすさを考慮して新字体に変更している部分もある。坂井義三郎編『本邦癩病叢録』(雨潤会、1919)p.55-56。国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧。(https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/934634)↩︎
  101. 光田が調査の参考資料として後に提出した『癩予防に関する意見』では、「癩の予防的作業は現今の如き部分的隔離より絶対的隔離に向つて進むにあらざれば其の効果を収め難し予は□〔←判読不能文字〕に八重山列島西表島を以て此絶対的隔離を行ふに好適の場所なることを調査復命せり」と西表島が最適であるとしている――光田健輔『癩予防に関する意見』(内務省衛生局、1921)p.1。国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧。(https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/985177)↩︎
  102. 坂井:前掲280、p.57。↩︎
  103. 光田:前掲281、p.1。↩︎
  104. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.612。↩︎
  105. 田中:前掲26、p.74および川﨑愛「戦前・戦後の無らい県運動とハンセン病療養所」社会学部論叢26巻2号、2016、p.52。↩︎
  106. 大阪府:前掲262、p.6。↩︎
  107. 「癩根絶20年計画」は、新たに1万人を収容する施設をつくり、10年後に全患者隔離を達成し、のち10年で患者がほぼいなくなるという計画。↩︎
  108. 「癩根絶30年計画」は、毎年500人分ずつ療養所定員を拡大して20年後には全患者隔離を達成し、のち10年で患者がほぼいなくなるという計画。↩︎
  109. 「癩根絶50年計画」は、新たに5000人収容の施設を10か年で完成し、その後30年間で全患者隔離を達成し、のち10年で患者がほぼいなくなるという計画。↩︎
  110. 向上社編『重要新法律理由 : 要綱図解』(向上社、1931)pp.325-328。国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧。(https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465738)↩︎
  111. 向上社編:前掲290、p.329。↩︎
  112. - 41 -
  113. 『癩はその数も限定された数でありますし、……完全に実績を挙げることが出来るのであります。結核に付ては勿論隔離を全部致しますことが出来るならば、それは理想でありませうけれども、……大体に於て推算して見ましても、百何十万と云ふ結核患者が居る……之に対する政策は癩に対する政策と同一には参り兼ると思ふ…』と述べている。向上社編:前掲290、pp.333-334。↩︎
  114. 向上社編:前掲290、pp.333-334。↩︎
  115. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.171。↩︎
  116. 三木:前掲209、p.105。↩︎
  117. 川﨑:前掲285、pp.45-46。↩︎
  118. 設置された13の国立療養所は、周囲を海に囲まれているか、深い山間、それでなければ療養所の周囲を高い隔離壁が張り巡らされていた。また、逃走防止のために厳しく監視され、入所時の所持金は有無を言わさず「保管」されるか(返してはくれない)、「園内通用券(円金)」という園内でしか通用しないお金へと換金させられた。加えて、入所者たちには、ほとんどの場合、強制的に園内での労働が課せられた。軽症者による重病患者の介護に始まり、洗濯、治療に使う包帯やガーゼのばし、給食運びなどの療養所で必要不可欠な労働、入所前の職業経験を活かして、耕作、畜産、炭焼き、大工、道路工事、掃除、死者の火葬など生活のためのありとあらゆる作業が「患者作業」によって行われていた。教職経験者の入所者の中には、子どもの入所者に対して「寺子屋」を開くということもあった。このような園内での強制労働は、当然ながら入所者の大きな負担となり、病状を一層悪化させ、その結果死に至る者もいた。入所者の結婚も許されていた療養所もあるが、その条件として「断種」や「人工妊娠中絶」を要求されたという。男性が女性舎へと通う「通い婚」が許される条件として断種が行われていた。手紙などは職員により検閲が行われ、園内の「規則」に違反すれば、懲戒検束権の行使が入所者たちを待っていた。田中:前掲26、pp.96-97。↩︎
  119. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、pp.89-90。↩︎
  120. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.90。↩︎
  121. - 42 -
  122. 1950年の書簡では、『日本政府は、今、未収容のハンセン病患者を治療するためにベッドを増やすよい計画を持っている。1950年代に新しいハンセン病療養所の設立と現在の施設の拡大とをとおして2050までのベッドを増やすことが期待される。加えて、1950年の計画はすべての未収容ハンセン病患者にプロミンをともなった治療を要求している。この計画は昨年開始され、現在までこの薬の使用においてたいへんよい結果が得られている。プロミンをともないハンセン病療養所で役に立つ自由な治療が過去も現在もそのような施設に入ったことのない重症者を救うことが期待できる』と報告している。ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.90。↩︎
  123. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.90。↩︎
  124. 東龍太郎(1893~1983)。1917年に東京大学医学部を卒業後、1934~1953年まで東京大学医学部薬理学教授、この間、1946~1951年にかけて、厚生省医務局長を兼任していた。1959年~1967年にかけては、二期にわたって東京都知事となっている。↩︎
  125. 国会会議録検索システム「第3回国会衆議院厚生委員会第5号昭和23年11月27日(https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=100304237X00519481127&page=10&spkNum=38&current=1)」p.10。↩︎
  126. 同上および成田:前掲12、p.97。↩︎
  127. 国会会議録検索システム「第5回国会衆議院厚生委員会第15号昭和24年5月6日(https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=100504237X01519490506&page=12&spkNum=48&current=1)」p.12。↩︎
  128. 国会会議録検索システム「第1回国会衆議院厚生委員会第28号昭和22年11月6日(https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100104237X02819471106&spkNum=14&current=1)」p.226。↩︎
  129. 菌の有無などの検査に合格し、「軽快退所」の証明を得たうえで、完全に療養所を退所すること。↩︎
  130. 多摩全生園の検査技師だった井上務が、1951年にプロミン投与の組織検査を実施した結果について、「3カ月くらいで菌が断裂状態になり、半年で顆粒状になる。1年経つとボッーとぼやけて菌体が崩れてしまう。本当に電撃的に効いた」と証言している。三木:前掲209、p.106。↩︎
  131. 同上、pp.106-107。↩︎
  132. - 43 -
  133. 光田は『…また薬にしても、近来プロミン剤によつて好結果があがつております。今までも大風子というようなよい薬がありますけれども、薬によつて根絶することはなかなかむずかしいのであります。というのは癩は皮膚の表面に出る疾患でございまして、癩菌はその皮膚及び粘膜、身体の春からどんどん外部に出て行くものであります。それでありますから、お気の毒ながら患者の自宅療養にまかせておくわけに行かない。どうしてもその身柄を隔離しなければならぬのであります。絶対隔離によつて、かつてはヨーロッパにはびこる癩はなくなつたように、隔離法は今日世界において日本が最も先頭に立つて、日本政府が非常なる盡力をされておるのであります。』と述べている。――国会会議録検索システム「第7回国会衆議院厚生委員会第5号昭和25年2月15日(https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100704237X00519500215&current=1)」p.15。↩︎
  134. 国会会議録検索システム「第12回国会参議院厚生委員会第10号昭和26年11月8日(https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=101214237X01019511108&page=1&spkNum=0&current=-1)」↩︎
  135. 同上。↩︎
  136. 同上。↩︎
  137. 同上。↩︎
  138. 同上。↩︎
  139. 同上。↩︎
  140. 内田博文「戦後の無らい県運動について」(無らい県運動研究会『ハンセン病絶対隔離政策と日本社会―無らい県運動の研究』(六花出版、2014))p.41およびハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.100および衆議院「癩予防と治療に関する質問主意書(http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b015005.htm)」。↩︎
  141. 第一条 この法律は、らいを予防するとともに、らい患者の医療を行い、あわせてその福祉を図り、もつて公共の福祉の増進を図ることを目的とする。↩︎
  142. - 44 -
  143. 第二条 国及び地方公共団体は、つねに、らいの予防及びらい患者(以下「患者」という。)の医療につとめ、患者の福祉を図るとともに、らいに関する正しい知識の普及を図らなければならない。↩︎
  144. 第三条 何人も、患者又は患者と親族関係にある者に対して、そのゆえをもつて不当な差別的取扱をしてはならない。↩︎
  145. 第十五条 入所患者は、左の各号に掲げる場合を除いては、国立療養所から外出してはならない。

     一 親族の危篤、死亡、り災その他特別の事情がある場合であつて、所長が、らい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めて許可したとき。
     二 法令により国立療養所外に出頭を要する場合であつて、所長が、らい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めたとき。
    2 所長は、前項第一号の許可をする場合には、外出の期間を定めなければならない。
    3 所長は、第一項各号に掲げる場合には、入所患者の外出につき、らい予防上必要な措置を講じ、且つ、当該患者から求められたときは、厚生省令で定める証明書を交付しなければならない。↩︎

  146. 栗生楽泉園の「重監房」は1947年に廃止されている。群馬県で行われた参議院議員補欠選挙に際し、1947年4月、共産党が栗生楽泉園に遊説に訪れたことがきっかけとなっている。当時は公的扶助を受ける者には選挙権がないという規定があり、ハンセン病患者もその対象とされていたが、日本国憲法の施行によりこの規定が廃止される。そこで、遊説にきた共産党員に入所者が重監房など園の実態を訴えた。重監房の問題は国会でも取り上げられ、その報道は国民に衝撃を与えたという。そして、重監房が廃止されたのである。その後の調査で、重監房には92人の患者が監禁され、22人が獄死(凍死、衰弱、自殺など)していることが判明する。しかし、これに関与した職員は誰も罪には問われず、懲戒としての正当性が証明されている。↩︎
  147. - 45 -
  148. 『入園番号』という近藤宏一さんが記した詩を紹介したい。この詩からは、療養所では、入園番号が名前(園名)と同等に価値を持ち、重要とされていたことが分かる。

    入園番号 近藤宏一

    四四三四―これが私の入園番号
    骨張っていて
    少し不安定に傾いていて
    なんとなく泣きべそをかいているその文字づら
    治療室のカルテに
    年金袋に
    選挙のときの入場券に
    それはいつでも私の名前と同じ重さで登場し
    里帰りの順番がくるとbr> 帰省願書にもその通りに書いてから捺印する
    (…中略…)
    やがて私が息をひきとるとき
    人事係の帳簿に赤い線が引かれ
    それは私とともに再び帰らぬ歴史となる
    一から始ったおびただしい数字の行列が
    次第に消されていったように
    四四三四もまた永遠に空番号となる↩︎

  149. 当事者がどのような名前(偽名)をつけられていたかを挙げていきたい。例えば、「明石海人」という人は本名を「野田勝太郎」という。「南龍一」という人は本名を在日二世の「崔南龍」という。「梶徹二」という人は本名を「加賀田一」という。「須山八重子」という人は本名を「仲本正子」という。上記の「近藤宏一」さんも本名かどうか定かではない。ここに本名を挙げた方々は、書籍や論文、ハンセン病裁判などで本名を明かすという「決断」をした方々や本名が判明した方々である。しかし、偽名のまま亡くなった入所者、あるいは退所者で偽名があったことを明かせないような当事者もいると考えられ、実態はまだまだ解明されていない。↩︎
  150. - 46 -
  151. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、pp.45-46。↩︎
  152. 園券、駒、通知錢、園内通用表などの種類があり、園内通貨(園貨)と呼ばれることもあった。ブリキやボール紙を材料に作られていたという。入園者のひとり、仲本正子さんは『療養所内ではブリキのお金があって、それで生活させられました。いまお財布に入っている日本のお金ではありません。園内の作業を一生懸命にして、そのブリキのお金をためるように頑張りました』と語っている。高木:前掲143、p.20より。↩︎
  153. 1948年に制定された「優生保護法」には、その対象にハンセン病患者が規定されている。そのため、「合法的に」優生手術が行われていた。↩︎
  154. 朝日新聞「ハンセン病389遺体解剖 熊本の療養所1911~65年調査 入所者全員に同意求める」(2020年9月15日付朝刊)↩︎
  155. 三木:前掲209、p.109および橋内:前掲10、p.41。↩︎
  156. 三木:前掲209、p.109。↩︎
  157. 厚生労働省『ハンセン病問題を正しく伝えるために』(2020年)p.9。↩︎
  158. 廣畑:前掲38、p.26。↩︎
  159. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、pp.155-167。↩︎
  160. 第十一条 国は、らい療養所を設置し、患者に対して、必要な療養を行う。↩︎
  161. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.104。↩︎
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