ハンセン病問題の軌跡と展望 - 差別禁止規定の可能性(2)

第3節 日本におけるハンセン病問題の現状と課題

(1)「ハンセン病」に関する今日の状況

 現在、「ハンセン病」への差別解消に対する法制化はどのようになっているのだろうか。また、法制化に伴い、どのような課題が指摘されているのだろうか。

 「ハンセン病」に対する差別解消への議論は、「らい予防法」廃止に関わる議論から始まる。日本のハンセン病法制は、ハンセン病患者に対して、強制的にハンセン病療養所に入所させるなどの人権侵害を長年にわたって行ってきた。このような戦後のハンセン病政策の法的根拠となったのが1953年の制定以降、1996年まで存続した「らい予防法」である。注目すべき点は、「らい予防法」が「基本的人権の尊重」を基本理念とする日本国憲法の下で制定されたことである。同時に、1948年に制定されていた「優生保護法」第3条1項3号には、ハンセン病患者に対する「優生手術」および「人工妊娠中絶」の規定があり、ハンセン病患者に対して実行されてきた[88]。ハンセン病患者への断種の理由は、「幼児への感染予防」「母親への病勢進行阻止」「他の患者への影響配慮」「養育上の困難」というものの他、ハンセン病は感染症であるが、罹患しやすい体質が、親から子へと遺伝するという認識が形成されていたためであった[89]

 「らい予防法」は、1996年まで継続され、療養所は入所者の生活の場としても維持されたが、相反してらい予防法の存在が患者・回復者の人権回復と社会復帰への大きな障害となっていたことから、元厚生省局長の大谷藤郎を中心に、「らい予防法」廃止への動きが始まり、1996年、「らい予防法の廃止に関する法律」[90]が制定され、「らい予防法」の廃止が実現した[91]

 1998年7月31日には、国による隔離政策の違憲性を問う国家賠償訴訟(「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」)が、九州にある2つの国立ハンセン病療養所(星塚敬愛園・菊池恵楓園)の入所者により熊本地裁に提起される。国が、「らい予防法」によって、患者を国立ハンセン病療養所へ強制隔離した政策は、基本的人権の侵害であり、ハンセン病元患者・療養所入所者は被害を受けたとして、国の過失を追求し損害賠償を請求するという裁判である。 - 1 - この裁判では、原告の入所者側は、国に対して、1人当たり1億1500万円の賠償金の支払いを請求した[92]。2001年5月11日に判決となり、原告側(入所者側)が勝訴、小泉純一郎首相(当時)が控訴を行わなかったため、原告の勝訴が確定した。熊本地方裁判所は、日本の行政・立法が「らい法制」を継続し、その下で隔離政策を継続してきたことを違法と判断した[93]。誤った政策で社会から排除された患者の苦悩を「人生被害」[94]と表現し、熊本地裁は以下のように判決を下した。

 らい予防法は、遅くとも昭和35年以降においては、隔離政策を用いなければならないほどの特別の疾患ではなくなっており、すべての入所者及びハンセン病患者について、隔離の必要性が失われた。厚生省としては、昭和35年の時点において、隔離政策の抜本的な変換等をする必要があったが、らい予防法廃止まで、これを怠り、厚生大臣の職務行為に国家賠償法上の違法性及び過失があると認める。

 らい予防法は、患者の隔離を規定しているが、これらの規定は、遅くとも昭和35年には、その合理性を支える根拠を全く欠く状況に至っており、その違憲性が明白。国会議員の立法行為(立法不作為を含む)が国家賠償法上違法となるのは、遅くとも昭和40年以降に新法(らい予防法)の隔離規定を改廃しなかった国会議員の立法上の不作為につき、国家賠償法上の違法性及び過失を認める。

 原告らが被告の違法行為によって受けた被害のうち、共通性を見いだすことができるもののみを包括して賠償の対象とすることとし、慰謝料額を、初回入所時期と入所期間に応じて、1400万円、1200万円、1000万円及び800万円の四段階とする。なお、認容額の総額は、18億2380万円(うち慰謝料が16億5800万円、弁護士費用が1億6580万円)。

 民法724条 に規定する「除斥期間(時効についての定め)」の適用はない[95]

その後、小泉首相は、「ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話」(2001年5月25日)を発表し、「訴訟への参加・不参加を問わず、全国の患者・元患者全員を対象とした新たな補償を立法措置により早急に講じること」「名誉回復および福祉増進のために可能な限りの措置を講じること」「患者・元患者と厚生労働省との間に協議の場を設けること」などを盛り込んだ[96]

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 熊本地裁判決の確定を受け、国は判決に基づき、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律(平成13年法律第63号)(以下、ハンセン病損失補償法。)」を制定した。さらに、「ハンセン病問題に関する検証会議」(2002年10月―2005年3月)が、ハンセン病政策の歴史と実態について多方面からの検証を行い、再発防止のための提言を行うための第三者機関として設置された[97]。国の誤ったハンセン病強制隔離政策に各界がどのように加担したのか、その加担責任など、これまでの経緯と問題点をくわしく検証し、その最終報告書を2005年に提出した[98]。その後、2008年には、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(平成20年法律第82号。令和元年11月22日公布(令和元年法律第56号)改正。)(以下、ハンセン病問題基本法。)」を制定し、療養所の地域開放とハンセン病の保険診療が始まった[99]

 ハンセン病問題基本法の制定によって、「ハンセン病問題」についての明確な定義が為された。ハンセン病問題基本法第1条によると、「ハンセン病問題」とは、『…国によるハンセン病の患者に対する隔離政策に起因して生じた問題であって、ハンセン病の患者であった者等及びその家族の福祉の増進、名誉の回復等に関し現在もなお存在するもの(以下「ハンセン病問題」という。)…』[100]とある。つまり、「ハンセン病問題」とは、病気や福祉、感染症や公衆衛生の問題ではなく、国(地方公共団体含む)が誤った患者隔離の法政策によって生じさせ、いまだに回復していない、ハンセン病回復者等への未曽有の「人生被害」および社会構造体として構築したハンセン病への偏見・差別等、犠牲者への個別補償や地域生活の基盤整備を含め、その回復のためにすべき、公的な責務としての社会政治課題を意味する言葉[101]である。

 しかし、ハンセン病問題基本法が対象とした補償は、ハンセン病患者本人の被害のみに限定されており、家族にハンセン病罹患者を持った人たち(ハンセン病患者家族)への差別に対する責任や偏見の解消への取り組みは含まれておらず、国はハンセン病家族への被害に対して法的な責任を認めて謝罪をしたり、家族への補償等の措置を講じたりすることもなく、目をそらし続けてきた[102]

 そこで、ハンセン病患者家族は、国を相手に、ハンセン病隔離政策による国の加害行為が、隔離収容の対象とされたハンセン病患者のみならず、その家族に対しても向けられており、家族が受けた固有の被害について、その責任を国に認めさせ、謝罪と賠償を求めることを目的[103]として、2016年、熊本地方裁判所に提訴した。

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 2019年6月28日に判決が出され、らい予防法とそれに基づく国によるハンセン病隔離政策が、ハンセン病回復者本人のみならず、その家族らに対しても違法であると言い渡し[104]、原告541人に対し、総額3億7675万円を支払うよう国に命じた[105]。また、隔離政策の実情として、ハンセン病患者が家族にいることで、就学拒否や村八分にされたこと、就労拒否を受けたこと、結婚差別を受けたこと、交友関係など多岐にわたる人生の選択肢が制限されたことなどの具体的な被害を挙げ、このような被害を「個人の尊厳にかかわる人生被害」と表現した[106]。以下が家族訴訟における判決の要旨である。

 国は、ハンセン病隔離政策等により、患者の家族が偏見差別を受ける社会構造を形成し、差別被害を発生させた。また、家族間の交流を阻み、家族関係の形成の阻害を生じさせた。

 医学の進歩や国内外の知見などから、遅くとも1960年にはハンセン病は患者を隔離しなければならないほどの特別の疾患ではなくなっており、隔離政策の必要性は消失していた。厚生省は十分認識しており、遅くとも1960年の時点で厚生大臣は、隔離政策の廃止義務があり、厚生大臣・厚生労働大臣の義務を果たしておらず、国家賠償法上の違法性と過失があった。また、人権啓発を担う法務大臣と人権啓発教育を担う文部大臣・文部科学大臣も義務を怠った違法性と過失がある。

 国会議員にとって1965年には、隔離規定の違憲性が明白であったにもかかわらず、1996年までの30年以上、らい予防法の隔離規定を廃止しなかったことは、正当な理由なく長期にわたって改廃などの立法措置を怠ったと認められ、その立法不作為は、国家賠償法上、違法の評価を受け過失がある。

 2001年末までは、患者の家族というだけで差別を受ける地位に置かれた。差別体験が無くても、恐怖を感じ、社会生活上の不利益や心理的負担が生じたことは明らかであり、慰謝料は30万円が相当。家族関係の形成阻害による損害で加算すべき慰謝料は、入所者が、親子または配偶者の場合は一律100万円、兄弟姉妹のみである場合は一律20万円とする。

 原告は2015年9月9日の鳥取地裁判決[107]を受けて提訴したことがうかがわれ、この日以降が消滅時効の起算点とするのが相当であり、提訴まで3年を過ぎておらず、消滅時効は完成していない。

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 この家族訴訟判決に対して、安倍晋三首相(当時)が内閣総理大臣談話を発表し、控訴しないことを表明したため、原告の勝訴が確定している。内閣総理大臣談話には、『…これまでの幾多の苦痛と苦難を経験された家族の方々の御苦労をこれ以上長引かせるわけにはいきません』[108]とする首相の考えを盛り込むとともに、患者・元患者およびその家族へのお詫びを盛り込んだ。

 この熊本地裁判決を受けて、国会では、「ハンセン病元患者家族に対する補償金の支給等に関する法律(令和元年11月22日法律第55号。)(以下、ハンセン病元患者家族補償法。)」が、全会一致で可決され、成立するとともに、「ハンセン病問題基本法」の改正が行われた。

 「ハンセン病元患者家族補償法」は、前文において、「ハンセン病元患者家族等も、偏見と差別の中で、ハンセン病元患者との間で望んでいた家族関係を形成することが困難になる等長年にわたり多大の苦痛と苦難を強いられてきた」 [109]ことを指摘し、隔離政策により被害を受けてきたことを認めた[110]。その上で、「その問題の重大性が認識されず、国会及び政府においてこれに対する取組がなされ」[111]なかったことに対し、「国会及び政府は、その悲惨な事実を悔悟と反省の念を込めて深刻に受け止め、深くおわびする」[112]、と国会と政府の反省が明記された。

 「ハンセン病元患者家族補償法」は、ハンセン病元患者家族の被った精神的苦痛を慰謝するための補償金制度を定め、その対象者を、1996年3月31日に「らい予防法」が廃止されるまでの間に、ハンセン病の発病歴があり、国内に居住歴を有する者との間に一定の家族関係を有する者で、申請時に生存している者としている[113]

 また、「ハンセン病元患者」とは、「らい予防法が廃止されるまでの間にハンセン病を発病し、その発病の時から当該廃止されるまでの間に本邦に住所を有したことがある者」[114]となっており、ハンセン病の発病歴があれば、療養所への入所経験がなくてもよいと定義されている。「ハンセン病元患者家族」とは、ハンセン病元患者の配偶者、親・子、一親等姻族[115]で同居[116]している者、兄弟姉妹、兄弟姉妹以外の二親等血族であって同居している者、二親等姻族[117]、で同居している者、三親等血族で同居している者となっている[118]。婚姻関係は事実婚でも認められる。ハンセン病元患者が発病した時から、らい予防法廃止までの間に、生活の本拠を同一にしていることが要求される[119]

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 補償金額については、元患者の配偶者、親・子、同居していた一親等姻族に180万円、兄弟姉妹や同居していた二親等姻族、三親等内の血族には130万円が支給される[120]。請求に基づいて、ハンセン病元患者と家族と証明できる資料の確認や外部有識者[121]による認定審査会の審査を経て、厚生労働大臣の認定によって支給される。請求期限は5年(2019年11月22日から2024年11月21日)である[122]

(2)ハンセン病当事者やその家族への差別実態

 日本では、これまで、ハンセン病に関する2つの裁判判決により、「ハンセン病問題基本法」「ハンセン病元患者家族補償法」という、患者・元患者およびその家族の被害を認め、損害を補償する取り組みが行われてきた。多くの人は、2つの熊本地裁判決により、ハンセン病問題は解決したと思うことだろう。しかし、この「ハンセン病」法制で、本当にハンセン病に対する差別や偏見が解消され、ハンセン病問題は解決したと言えるのだろうか。

 「ハンセン病問題基本法」には、「何人も、ハンセン病の患者であった者等に対して、ハンセン病の患者であったこと若しくはハンセン病に罹患していることを理由として、又はハンセン病の患者であった者等の家族に対して、ハンセン病の患者であった者等の家族であることを理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない」[123]という差別禁止の規定が設けられたが、依然としてハンセン病に対する偏見・差別は残り続けている。そのように、ハンセン病に対する偏見や差別意識がもとになった事例を参照しよう。

1. 医療の分野における差別

 ハンセン病回復者のうち、療養所を対処している人の場合、手足や末梢神経等に麻痺などの後遺症をきたしていることも少なくなく、定期的な医療ケアを必要とする。しかし、回復者が病院で医療ケアを受けようとすると、医師から拒否されてしまうことも多々ある。医療ケアは、ハンセン病による後遺症の負担軽減のために必要であるが、医師による理解が足りないことが多い。事例を2つ挙げる。

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 第1は、大阪府内に暮らす70歳代のハンセン病回復者の事例である。この回復者には、ハンセン病の後遺症による末梢神経麻痺があり、手足の痛覚が麻痺している。足や手には「タコ」ができやすく、「タコ」を放置すると手足の深部まで傷を負い、足底潰瘍などの深刻な二次障害の原因となる。手に麻痺を生じているため、自分自身で「タコ」を削るなどの処理することが難しく、医師によるケアを必要としている。自宅近くの医院で「タコ」の除去を依頼したところ、「そんなことは自分でやりなさい」と一蹴されたという[124]。この70歳代の回復者は、医師にはハンセン病であったことを秘匿している。医師は、この回復者の手足の麻痺については理解しているが、ハンセン病によるものとは知らない。

 第2は、ハンセン病療養所非入所者の80歳代のハンセン病回復者の事例である。80歳代の回復者は、厳しい偏見にさらされる中で、人目を避け、家に閉じこもる生活をしていた。その中で、手の傷が悪化し化膿、敗血症寸前の状態で搬送された。その時、入院先でハンセン病歴が分かってしまった。病院はハンセン病療養所のレクチャーを受け、80歳代の回復者はすぐに個室に移動させられ、医師・看護師ともに病室に入室する際には、マスクと手袋をし、退院する際には病室を消毒した。これを知った回復者は、このことがトラウマとなり、絶対にハンセン病歴は明かさないと誓ったそうだ。自身の指がない原因を聞かれた際には、「生まれつき」と話している[125]

 事例として取り上げたのは2つであるが、実例はこれに尽きるものではない。医療従事者に対して、ハンセン病、ハンセン病問題に関する研修があまり行われていないが故に、医療の面で、ハンセン病後遺症や合併症の治療においても差別的取扱いを気付かずにしているのではないか。現在、日本人の新規発症者数は、年間ほぼゼロの状態が続いており、多くの皮膚科教授がハンセン病を診察したことがなく、ハンセン病の講義も多くの大学でなされていないため、ハンセン病の診断・治療がきちんとできる皮膚科医は全国で10人程度である[126]

もし徹底されていたなら、一例目のように「そんなことは自分でやりなさい」と一蹴されるようなことも、二例目のように、すぐに個室に移動させられ、医師・看護師ともに病室に入室する際にマスクと手袋をし、退院する際には病室を消毒したりするようなこともなかったかもしれない。もちろん、回復者である以上、他者に感染させることは無いため、不必要な処遇だったと言えるだろう。二例目に関しては、ハンセン病のことを詳しく知らずに行った差別的な処遇が、結果的に80歳代回復者のトラウマとなっている。医療従事者による処遇は、回復者のその後の生き方をも左右してしまう。

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2. 介護の分野における差別

 ハンセン病による後遺症の末梢神経麻痺は、日常生活に様々な困難をもたらす。例えば、調理中などで包丁を使用中に指を切ったり、油がはねて火傷をしたりしても気付くことができない。気付かないまま放置し、症状を悪化させてしまうこともある。そのため、高齢になってくると介護保険に係る要介護認定を受けることも多い。しかし、要介護認定ではハンセン病後遺症をあまり考慮されず、要介護度が上がりにくいという現状がある。要介護認定を受けるためには、ハンセン病専門医に意見書を書いてもらい、認定調査の際には、自身がハンセン病である(あった)ことやハンセン病歴を明らかにするとともに、ハンセン病後遺症による生活の不自由さを説明する必要がある。

 あるハンセン病回復者の女性は、この段階を踏んだにもかかわらず、審査の結果、「現在一人で生活できているのだから、廃用症候群(寝たきりの状態など)にならないためにもヘルパーを使わない方が良い」と、ハンセン病の後遺症が考慮されずに要介護度が決定された。この女性は、勇気を出してハンセン病歴を明らかにしたにも関わらず、後遺症による不自由さを考慮されない結果となったので、非常にがっかりとしたそうである。女性は「やはりハンセン病療養所に再入所するしかないのかと思った」[127]という。

 また、別の回復者は2017年2月の聞き取り調査で、「我々(退所者)がいちばん老後の不安をもっている。(退所者のなかで)夫婦とも元気で、子どももいて、その子どもが(老後の)面倒をみてくれるという人は、ほんの一握り。年取ってくると、療養所志向が顕在化してくる気がする……」[128]と話している。

ハンセン病後遺症等について、医療従事者や福祉関係従事者に理解不足が少なからず見受けられるために、療養所退所者が社会で十分な医療サービスや福祉サービスを安心して受けられないことも多い。

3. 教育の分野における差別

 ハンセン病による差別の実態は教育界にも存在する。一例を挙げていきたい。2014年6月6日の朝日新聞夕刊によると、2013年11月、福岡県内の公立小学校において、人権教育を担当する教諭が、ハンセン病を題材として取り上げ、小学6年生とその学級担任に授業を行った。その後、学級担任が児童に書かせた感想文には、半数以上の児童が「骨や身体がとける病気なので、友だちがかかったら離れておく」「怖いのでうつらないようにマスクをする」などのハンセン病に対する誤った認識による記述をしていた。 - 8 - 担任教諭はこのような内容を記した児童の感想文を、人権担当の教諭に見せないまま、熊本県にある国立ハンセン病療養所「菊池(きくち)恵(けい)楓(ふう)園(えん)」へ郵送し、恵楓園からの返事を求めた。恵楓園は、学級担任に手紙を送ったが、担任からの返事がなかったため、2014年3月に、児童の感想文を添えた手紙を福岡県教育委員会へ送ったところ、問題が発覚した。

 人権担当の教諭は、社会科の時間で、偏見や差別をテーマに、ハンセン病を取り上げ、授業をした。人権担当の教諭は、自作スライドの中で、過去にあった誤った認識のひとつとして、「風邪と一緒で菌によってうつる。手足の指とか身体が少しずつとけていく」と紹介していた。問題発覚について、担任教諭は「ハンセン病のことを知らず、子どもたちの認識違いに気付かなかった」と述べたという。福岡県教育委員会は、2014年4月、元患者・回復者を傷つけてしまったとして、菊池恵楓園側に謝罪した。

 その後、福岡県教育委員会は、すでに中学校へ進学した生徒に正しい知識を伝えるため、当該小学校がある地域の教育委員会に、全中学校での授業実施を依頼した。また、菊池恵楓園とも議論を重ねながら、2017年4月に、教員向けの学習資料集を作成した。この問題に対して、福岡県教育総合研究所研究員の高浜俊雄さん(当時)は、「授業を作る教師が正しい認識を持っていたか。これは氷山の一角ではないか」 [129]と指摘する。恵楓園入所者自治会長の志村康さん(当時)は、「差別の連鎖を教育の場が作り出してしまっている。中途半端な教育ならしないほうがいい。教師もきちんと学んでほしい」[130]と述べている。

 この問題は、人権とは何かという基本的な認識もなく授業を行ったこと、担任教諭が感想文に目を通していたにも関わらず、問題点にまったく気付かなかったという実態が浮き彫りになった事例である[131]。ハンセン病問題のような人権教育に関して、教師側の責任が当然に問われる事例だ。ハンセン病問題を通して、何をどのように伝えていくかが問われている。

4. 市民による差別

 ハンセン病回復者に対する市民の差別意識はどうだろうか。ハンセン病法制の整備や教育によって人権意識に変化はあったのだろうか。大阪市社会福祉協議会が実施した意識調査の結果を引用したい。正式名称を「ハンセン病問題並びにHIV問題に関する市民意識調査」[132]といい、2011年3月に公表されている。

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 この調査によると、「ハンセン病回復者と一緒に風呂に入ること」について、「とても抵抗を感じる」と答えた人が9.7%、「やや抵抗を感じる」と答えた人が27.6%で、合計「抵抗を感じる」が37.3%となった。また、「ハンセン病回復者の子どもがあなたの家族と結婚すること」については、「とても抵抗を感じる」が15.1%、「やや抵抗を感じる」が26.9%、合計「抵抗を感じる」とした人が42.0%という結果になっている。さらに、「ハンセン病回復者と同じ福祉施設を利用すること」について、「とても抵抗を感じる」は2.3%、「やや抵抗を感じる」は16.2%だった。

 このことは、「らい予防法」の廃止やハンセン病問題基本法の制定後によるハンセン病問題についての啓発が行われているにも関わらず、市民の中にまだ差別的な意識が強く残っていることを示しているのではないか。もしくは啓発活動がうまく機能していないことを示すものではないか。ハンセン病回復者から感染しないことや遺伝しないこと等の正しい知識がないからこそ不必要に恐怖を感じてしまう。

 今現在、ハンセン病療養所内の納骨堂には数多くの遺骨が安置されている。療養所入所者は、長期の療養所生活によって、家族と連絡を取れなかったり、連絡がつく場合でも遺骨や遺体の引き取りを拒まれたりすることも少なくない。また、患者家族自身も、差別や偏見を恐れるあまり、患者との縁を断ち切って生活せざるを得ない状況や患者が身内にいることも秘匿するような状況に置かれていた。それは、回復者や家族の周辺が、まだ差別的な目を向ける可能性があるということだ。ハンセン病であることを知られれば、回復者だけでなく家族も差別や偏見のまなざしを向けられる。

ある療養所の関係者は「この園とつながる電車の線は遺骨の忘れ物が日本一多い路線じゃないかと思いますよ」[133]と語っている。遺骨を引き取ったとしても、家に持って帰ることをためらう家族も少なくない。邑久光明園入所者である詩人中山秋夫さんは次のような俳句を残している。

「もういいかい 骨になっても まあだだよ」(中山秋夫、2002)

この俳句は、ハンセン病回復者に対して、市民による差別が依然続いている状況にあることを示唆している。

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5. 芸術作品における差別

 ハンセン病に対する差別の意識は芸術の中にも潜んでいる。以下にミュージカルでの事例を挙げる。2011年に大阪市で開催された「ドクターサーブ」というミュージカルで、劇中のハンセン病患者の描写をめぐって問題とされ、批判の対象となった。

 このミュージカルは、アフガニスタンやパキスタンなどで医療や農業の支援に従事した医師、中村哲さんの半生を描いたものである。ミュージカルは、「大阪・神戸憲法ミュージカル2011実行委員会」が主催し、大阪・兵庫の弁護士が中心を担っていた。人権と平和を考えるミュージカルとして企画され、市民120人が出演した。2011年10月1日の初演から2011年10月31日にかけて、大阪や兵庫で6回にわたって公演が行われた。演題の「ドクターサーブ」は、和訳すると「先生様」となる。アフガニスタンでハンセン病治療に従事する中村哲さんが、ソ連撤退や内戦、9・11後の空爆など戦火のなかを生きる人に寄り添い、現地のために用水路を掘るまでを描くというストーリーである。

 このミュージカルで問題となったのは、チラシに印刷された「らい病」の表記や2時間の劇中で約20分にわたったハンセン病患者の描かれ方である。ポスターには、「らい病治療のためアフガニスタンに赴いた」と記されている。このミュージカルは、2011年公演で、「らい予防法」が廃止され、「ハンセン病問題基本法」が制定された後であることを考えると「ハンセン病」とするのが正しい。初演の劇中では、数十名のハンセン病患者役の演者が、ボロボロの黒い衣装を身にまとい、叫び声を上げて身もだえ、腕を伸ばして薬を求める。おどろおどろしい踊りを繰り広げ、女性ワーカー役の演者が恐怖で患者から逃げ惑うという演出がされ、ハンセン病の恐ろしさが強調されていた。また、「溶けていく足が」「腐っていく手が」などのセリフも初演前にはあったようである。この2つの表現は、支援団体の抗議により、初演では、「溶けていく足が」は「苦しい」、「腐っていく手が」は「薬をください」と変更され、主催者が「現在は治療法も確立、治癒する」と記した病気の説明分をパンフレットに折り込むという措置を取っていた。

 しかし、初演を見たハンセン病当事者や支援団体は、「見ていられなかった」「出演者がハンセン病をああいう形(劇中での演出)で捉えていたと思うと空恐ろしい。今までの啓発もなんだったのか」[134]と憤り、主催者に対して、ハンセン病に関する場面についての全面的な修正と削除を求めた。 - 11 - 10月8日には、当事者と出演者、スタッフが意見を交わし、患者役の衣装は天使に見えるように黒から白を強調させ、演者の動きも抑えるように変更する決定がされた。10月10日の第二回公演では、冒頭で共同代表の弁護士が、舞台は日本ではなく戦火のアフガニスタンだと説明し、「関係者の心を傷つけてしまったことをおわびします」と謝罪した。ミュージカルを演出した演出家の田中暢さんは「1980年代、戦火のアフガニスタン、難民、薬もなく放置された患者たちという特異な設定で、日本と結びつけていない。現地で患者と出会い、彼らの尊厳と悲しみに寄り添う中村さんを描きたかった。過激に見えたかもしれないが、オブラートに包み隠してしまうと、この病気の苦しみ、悲しみを語ることさえ遮断してしまう…(中略)…やれるだけの修正はしたが、ここから先は表現の自由。当事者を愚弄するとは考えていない」[135]と話している。一方、当事者たちは修正に応じたことを評価しつつも、「獣のように演じられ、人として描かれていない」とさらなる修正を求めていた。その後も公演は続けられ、内容自体の変更がないままに公演は終了した[136]

 2010年の国連総会において全会一致で可決された「ハンセン病患者及びその家族に対する差別を撤廃するための原則及びガイドライン」の第9項には、「各国政府は政府刊行物から、らい者(leper)という用語の侮辱的な使用を含め、差別用語を排除すべきであり、可能な限り、そのような用語を用いている既存の刊行物を速やかに修正すべきである」とある。取り上げた事例のようなミュージカルなどの表現方法は、観客にイメージが伝わりやすく、間違った内容や誇張した内容は、偏見を助長させてしまう恐れがある。「芸術作品」や「表現の自由」だからと是正されない状況をなくすために、「原則及びガイドライン」が生かされるように取り組むことが求められている。

6. サービス業における差別

 サービス業におけるハンセン病差別の事例に関しては、熊本県で起きたハンセン病回復者の宿泊拒否事件とその後の経過が挙げられる。事件の顛末を述べていきたい。事件は、2003年に熊本県黒川温泉で起きた。当時、熊本県はハンセン病療養所の入所者に対し「ふるさと訪問事業」[137]という活動を行っていた。社会とのつながりを絶たれた入所者に社会とのつながりを取り戻せるようにするという里帰り事業である。事件の経緯を挙げていく。

 2003年9月17日、熊本県が国立ハンセン病療養所菊池恵楓園の入所者に対し、「ふるさと訪問事業」で、熊本県南小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」に11月18日の宿泊予約をした。11月7日には、熊本県がホテル側にファックスで宿泊者名簿を送付し、宿泊予定者が菊池恵楓園の入所者であることを伝えた。 - 12 - すると、11月13日に「他の宿泊客に感染の恐れがある」等として、ホテルは熊本県に宿泊拒否を伝えた。13日中に県は、河津修司南小国町長(当時)と小林茂喜黒川温泉旅館観光協同組合長(当時)に電話でホテルを説得するよう依頼するも、「本社の指示がないと受け入れられない」とホテルの姿勢は変わらなかった。熊本県は、翌11月14日に、県職員をホテル本社のアイスター(東京)に派遣し、知事名の申入書を手渡すとともに、「宿泊拒否は人権侵害に当たる」と説得するが、翌15日の最終回答も「会社の方針で断る」だった。17日には、菊池恵楓園入所者自治会代表者らがホテルを訪問し、総支配人と面談、宿泊拒否の理由についての説明を求めた。ホテル側の説明が要領を得なかったため、「恵楓園の入所者は受け入れられないというのが理由か」「結局、ハンセン病という病気が理由なのか」「最初から恵楓園と言っていたら、その場で断っていたか」との質問に、ホテル側は「はい、そうです。」と回答。誰が宿泊拒否を決定したのかという問いには「本社の方針」を繰り返し、約40分の面談によっても、ホテル側は宿泊拒否の姿勢を変えなかった。

 11月18日、潮谷義子熊本県知事[138](当時)が、定例記者会見の場で、宿泊拒否事件とホテル名を公表した。このことで事件が大きく社会問題化した。20日には、ホテル総支配人が恵楓園を訪れ、世間を騒がせたことについて謝罪した。しかし、この時にも宿泊拒否についての謝罪は無かった。自治会側は「誠意が感じられない」として謝罪の受け入れを拒否、事前に準備していた「和解=共同声明文」を保留し、誠意ある謝罪を求めホテル側に再考を促した。

 11月21日には、熊本県地方法務局と熊本県が旅館業法[139]違反の容疑でホテルを熊本地方裁判所に告発、25日に受理された。12月1日、アイスター社長がホテルで会見し、「宿泊拒否は当然の判断。責任は県にある」と発言。その一方で菊池恵楓園を訪問し、自治会に謝罪、自治会は「不本意ながら」謝罪文を受け入れた。12月4日には、アイスター社長が予約なしで突然恵楓園を訪問、入所者自治会から「宿泊拒否は当然」発言の撤回を求められるが、「言い過ぎだった」との弁明にとどまった。12月6日、アイスターが同社ホームページに、『「宿泊拒否は当然だったという発言は言い過ぎだった」と社長が謝罪したと新聞報道されたが「そのようなことは一切言っていない」』と全面否定するコメントを掲載した。ホテルが徹底抗戦の構えに出たと言えるだろう。12月20日、アイスター社長が菊池恵楓園を訪問し、「宿泊拒否の判断は間違いだった。社員教育を徹底する。」と謝罪。自治会は和解を受け入れた。

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 年が明け、2004年1月20日には、県がアイスター社長をホテルの営業停止処分の前提として事情聴取。社長は「宿泊拒否は間違いだったが、責任は県にある」と主張したという。2月16日には、アイスターが熊本県の行政処分発表の前日、機先を制する意味もあり、「宿泊を断ったことに対する最大かつ最善の謝罪」として、アイレディース宮殿黒川温泉ホテルの廃業を公表した。3月5日に、潮谷知事が記者会見で営業停止3日間の行政処分を公表する。一週間後の3月12日には、アイスター社長が記者会見を開き、「行政処分は受け入れるが、県に責任があり、我々は被害者」であると再度の主張を行った。3月29日、熊本地検は、旅館業法違反の罪で社長ら3人とアイスターを略式起訴、それぞれに罰金2万円の処分を行った。

 この事件は、ハンセン病回復者への「感染症の予防」という大義名分で宿泊拒否を行ったものである。しかし、ハンセン病者への差別は宿泊拒否だけでは済まなかった。当初、アイスターによる宿泊拒否が報道されると、大きな怒りの声が社会から起きた。しかし、ホテル側が形式的にも謝罪したことに対し、入所者らが「誠意が感じられない」として謝罪受け入れを拒否し、自分たちがどれだけ傷ついたかを訴えると、局面は一転した。マスコミ各社が「ホテル側は謝罪」「自治会は謝罪を拒否」と報じると、熊本県だけでなく、自治会等に対しても、恵楓園入所者を誹謗中傷するおびただしい数の差別文書や差別的な電話、ファックスが全国から殺到した[140]。菊池恵楓園入所者自治会に送り付けられてきた差別的な手紙は、そのほとんどが「一市民より」「国民の一人から」などの顔の見えない匿名で送付され、住所が明記されていなかった。「なぜ謝罪を認めないのか。それほどお前たちはエライのか」「身体もみにくいが心もみにくい」「どこの世話になっているのか。人権、人権いうな」 「お前たちはハンセン病発病の時点で人間ではない。ダニやゴキブリやハエやノミやシラミやうじ虫よりもバカでアホでうざったくて汚い下等単細胞生物になったのである。(中略)ホテルというところは人間が泊まるところであってお前たちのような人間ではないダニどもが泊まるところではない」[141] 「一緒に温泉に入ると考えるだけで、ぞっとする」「気持ち悪い。怖い。おまえら人間以下が一人前のことを言うな」[142]「人間以下の存在が偉そうにするな。自分たちの姿を鏡で見てからモノを言え」「ホテルへの営業妨害だぞ」「だれのおかげでメシが食えていると思うんだ。ありがたくおもえ」[143] 「差別ではない区別だ。きたないものはきたない。自分の姿を知れ」「去年、熊本県水俣市で大きな土石流が発生して大きな事故となったけど、あれが水俣市でなくて恵楓園で発生して、お前たちのような生きていても何ひとつ役に立たない化け物が死ねばよかった。そうすれば祝日となって化け物の死を喜べたのに。お前たちは自分たちの顔や姿を鏡で見たことがあるのか?化け物よりひどくて妖怪よりおそろしい。こういう奴らは地域の景観を乱す粗大ごみであって、さっさと死んでくれ」 - 14 - 「あなたたちが、もし温泉に入られたと知ったら、私たちはその温泉には一生涯入りません。それくらい恐ろしい病気なのです。それが証拠にあなたたちの顔、手、身体は普通の人とはまったく違います。(中略)世間を甘く見ないで控えめにしてこそ、多少は同情も集まると思います」[144]などと、どれも悪意に満ちた内容のものばかりだったという[145]。恵楓園の入所者のひとりが、この時のことを次のように語っている。

 「私たちはこの一ヶ月余り、美しい日本語の中にこれほどにも人を中傷し、さげすむ言葉があったのか、と思うほど、ひどい言動を浴びされ続けた。詳しくは言いたくはないが、ひどいものだった。例えば、後遺症のひどい人の写真をはがきの中央に張り付け、矢印で指し示して言いたい放題書いてあったものがあった。ありったけの汚い言葉を駆使したものもあった。別の温泉へ行ったところ、今度はそこへの攻撃が始まり、「あそこには泊らないようにキャンペーンを」というような動きが出た」[146]

 2004年、アイスターによる「ホテル廃業」発表のニュースが伝えられるとすぐに、県に対してだけでなく、自治会などにも、抗議の電話や手紙が再び殺到した。世間の批判の矛先が、県のみならず、元患者にも向けられた。ハンセン病に対する世間一般の理解不足と、元患者への偏見や蔑視の根深さを改めて痛感させるものであった。強制隔離とこれに起因する差別・偏見という「異常事態」が長く放置され続けた結果、市民の側に感覚麻痺があって、多数の人がこの「異常事態」に疑問を持たなくなっているといえるのではないだろうか[147]

また、今回の事例にはマスメディアの報道も大いに関係している。2003年11月20日のホテル謝罪の際に、「何が何とかではなく、ハンセン病だったから会社の方針として宿泊を拒否した」[148]との冒頭の総支配人挨拶が、テレビニュースや新聞報道から「カット」され、元患者側の憤慨した場面がニュースなどで強調されたことから、事件の真意が国民に正確に伝わらず誤解を与えた。植山光朗氏は『恵楓園の抗議は意図的、組織的におこなわれたこともあるが、マスコミのミスリードが真実を知らない読者を煽った嫌いもないことはない』[149]と私見を述べている。マスメディアの「加工された」情報発信によって、「一般市民」の中に「誤解」を生むことになった。

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 その結果、元患者らの姿勢が頑なであり、物分かりが悪いという印象を植えつけるに至った。被害者である恵楓園の入所者が「加害者」に、加害者であるホテル側が「被害者」にすり替えられるという事態が生じてしまった。マスメディアという第三者が介入したことによって事件の経過、真相究明などが複雑になり、ハンセン病回復者の宿泊拒否事件は、直接的な差別・被差別の経験を継承していない人々が関係したハンセン病差別事件[150]となった。

この宿泊拒否事件の場合は、熊本県が、告発や行政処分などの毅然とした対応を行ったため、問題が顕在化するに至ったが、顕在化していない同種の事件は数多く存在していると考えられる。その意味では、この宿泊拒否事件が解決したとしても、問題は依然として未解決であると言えないだろうか。差別的な処遇を行うという表面的な差別行為の裏には、社会の中に広くて深い差別構造がある。「ハンセン病回復者へのアイレディース宮殿黒川温泉ホテル宿泊拒否事件」は、この差別の二重構造を明らかにした。この事件の経過を見る限り、ハンセン病に対する差別・偏見の意識には、憲法の精神は全く機能しなかったようである。

7. ハンセン病回復者をも捉えているハンセン病、ハンセン病後遺症に対する「差別」意識

 ハンセン病の病歴やその後遺症は、回復してもなお、苦しめ続ける状況にある。あるハンセン病回復者は、1人で入る飲食店では目立たないように必ず端の席に座り、手に後遺症があり、箸やナイフが上手く使えないため、周囲が見ても不自然にならないようにスプーンを使う料理しか注文しないという。また、後遺症で脱肉している手や腕を見られないようにするため、真夏でも長袖を着用し、ポケットに手を入れて隠す習慣のある人もいるそうだ。当事者でない人から親切にされると「こんなに自分に優しくしてくれた」と必要以上に恩に感じてしまう回復者も少なくない。

 1958年、厚生省(当時)は、ハンセン病療養所からの退所を規定する「軽快退所規準」を出した。しかし、顔面や四肢に重度の障害がある人に対しては退所を認めなかった。多くの入所者がこの基準によって退所できず、自らの後遺症のために人格を否定された人もいる。「そんな顔で対処できると思っているのか」等の当時の職員の言葉に現在も縛られていて、人とは会いたくない、関係は持ちたくないと思っている人もいるようだ[151]

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ハンセン病療養所における「軽快退所準則」(厚生省、1956年5月内規)

 らいの治療または略治、その再発並びに伝染のおそれの有無の判定は、現段階においては、かなり問題とされる点がある。これがため従来各国立療養所における患者の退所決定にあたって、その基準が区々となり、その結果、不測の紛議を生じた例もあるので、次のように暫定的に対処決定準則を定める次第である。

 本症の特質に鑑み、本準則はあくまでもその必要最小限を示すものであって、各療養所長が本準則よりも一層高度のものを定め、それに基いて対処の決定を与えることをさまたげるものではなく、また本準則を定めたことによって積極的に患者の退所を行わせる意図を含むものでもない。また、本準則の実施によって将来是正すべき諸点を発見する場合も絶無とは言い難いので、本準則は厳秘として、あくまで療養所長単独の資料として活用し、部内外に対して漏示しないよう固く留意されたい。

斑紋型及び神経型

(イ)病状固定を判定するためには、少くとも1年以上の期間について観察すること。


(ロ)皮疹が消褪してから1カ年以上当該部位における知覚麻痺が拡大しないこと。

(ハ)(ロ)の知覚麻痺の拡大がなくなってから、2カ月に1回ずつ皮疹の消褪した部位のなるべく多数カ所からスミヤーを使って検鏡し3回以上ことごとくらい菌陰性であること。

(ニ)大耳、正中、尺骨、橈骨、後頸骨、各神経及びその他の皮膚神経の腫脤が著明でないこと。

(ホ)光田氏反応 10×10ミリメートル以上であること。

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結節型

(イ)病状固定を判定するためには、少くとも2年以上の期間について観察すること。

(ロ)らい結節及びらい性浸潤が吸収され消失していること。

(ハ)(ロ)のらい結節及びらい性浸潤が吸収され消失してから2カ月に1回ずつ結節又は浸潤のあった部位のなるべく多数カ所からスミヤーを使って検鏡し6回以上ことごとくらい菌陰性であること。

(ニ)(ハ)の検査でらい菌陰性であった場合、更に結節又は浸潤のあった部位の1カ所以上からバイオプシーを試みてらい菌陰性であること。

 療養所では「社会に出かける」という普段使わないような特殊な言葉が使われる。故郷に帰る際にも顔を見られないように隠し、人の目を恐れるように夕方から夜にかけて外出することを意味する[152]。顔を見られてしまうと、そのことが原因でさらなる差別が生じることを案じてである。長島愛生園の入所者だった加賀田一さんは、「僕達は故郷を捨てたのではなく、故郷から捨てられた棄民である」[153]と語っている。あきらめのようにも聞こえる言葉である。故郷に帰れずに療養所でしか過ごせない、社会復帰しても隠れ住むようにしなくてはいけない。そのような状況に置かれている。

 また、社会復帰した人のなかには、パートナーや子どもにも、ハンセン病の病歴を隠している人も多い。東京都の社会福祉法人ふれあい福祉協会が2016年から2017年にかけて、行った、155人からの対面での聞き取り調査では、ハンセン病療養所から退所した人の二割が、病歴や療養所にいたことを誰にも話していないという実態が明らかになった[154]。調査に回答した退所者は平均77.4歳だった。83%は配偶者、62%は子どもがいると回答。病気のことを配偶者に伝えているのは全体の36%、子どもに伝えているのは27%にとどまっている。19%は誰にも話していないと回答している。回答者の八割は、手や足の麻痺や神経痛などの後遺症があり、受診の際に病歴を明かしているのは四割だった。この調査からも分かるように、ハンセン病の病歴を明かすことには今でも大きな障壁がある。ハンセン病に対する根強い偏見・差別に起因して、ハンセン病当事者それぞれが病歴を自分の中に封印し、トラウマのように抱えている。最も信頼関係を寄せる妻や子どもなどの家族、友人、知人にも病歴を話せないという現実がある[155]

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 ハンセン病当事者が、ハンセン病歴を明らかにしたことで、その家族が離婚されるという事例も生じている。沖縄県に住む60代の女性は、自分がハンセン病の元患者であることを明らかにしたために、息子とその妻が離婚したという経験をした。女性は小学生の頃にハンセン病と診断され、約2年間、家族から引き離されて療養所で生活した。2016年のハンセン病家族訴訟に女性の息子が加わる際に、女性は息子の妻に病歴を明かした。女性は結婚する際に夫の両親から強く反対された経験もあり、ハンセン病の病歴を知られれば、家族や親族にどんな問題が降りかかるか分からないという葛藤もあったが、息子の妻は30代と若く、ハンセン病について理解してくれると思い、女性は病歴を明かした。すると、その数か月後には、息子の妻は2人の子どもを連れて、何の前触れもなく家を出ていった。相手の実家に息子と出向き、「戻ってきてほしい」と土下座で必死に頼み込んでも、「帰れ。絶対に孫は渡さない」と相手の両親は全く取り合ってくれなかったそうだ。その約1か月後には、息子のもとに離婚届が送りつけられた。相手側の親族は「一日も早く離婚届を書け。養育費もいらない」と迫り、争えば子どもが苦しむと思った息子は、やむなく離婚届にサインをした。女性が「お母さんが(病歴を)話したせい?」とおそるおそる聞くと、息子は「(妻は)そういう話もしていたね」と話したそうだ。後日、相手の親が、女性の病歴を、女性の親族に尋ねていたことも知った。女性になつき、頻繁に遊びに来ていた孫とも会えず、孫が遊んだ部屋やおもちゃを見るたびに胸が締め付けられる思いをしている。女性は「(ハンセン病訴訟や補償法ができて)少しは変わると思っていたが、差別や偏見はなくなっていなかった」「世の中は、ハンセン病問題は終わったと思っているかもしれないが、解決なんてしていない」と涙を流しながら朝日新聞の取材に話している[156]

 取り上げた沖縄県の女性の事例は「氷山の一角」であり、実際にはもっと多くの当事者が経験していることと思われる。話したことで家族が離婚されるという事実が女性を苦しめている。ハンセン病だったという事実は、ハンセン病が回復した後も当事者を苦しめ続ける。病気に起因する後遺症がなくとも、周囲の偏見や差別意識が「ハンセン病の後遺症」として社会に存在し続ける限り、この女性のような事例は密かに生じ続けている。社会的な要因として社会の側が背負わせた責任、実態であることを自覚しなければならない。

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8. ハンセン病当事者の家族が受けている差別

 ハンセン病に起因する差別は、ハンセン病当事者だけにとどまらず、ハンセン病当事者の家族も苦しめ続けている。前述した女性の息子の事例も1つであるが、そのほかの事例も挙げたいと思う。

 まずは、70歳代のハンセン病回復者にまつわる事例である。70歳代の男性ハンセン病回復者の娘は、結婚したいと思っていた相手から、父親の顔や手にある後遺症からハンセン病歴が分かって結婚を断られたという。娘は気丈に振舞ったというが、結婚差別の現実は厳しいものがある。さらに、男性のもとに50年ぶりに中学校の同窓会の案内がきたので、出席したいと思い、故郷で暮らす妹に電話で相談したところ、ハンセン病の後遺症のある顔や手を見られたら分かってしまう、寝た子を起こしてはだめ、まだ、結婚していない甥や姪がいるのだから出席してくれるなと反対されたという[157]。結婚差別を恐れて、親族がハンセン病回復者の人間関係を絶たせてしまう現実がある。

 また、家族自身を差別から守るため、ハンセン病にかかった親族を遠ざけるという事例もある。ハンセン病にかかった親族がいることで、地域や職場、学校などの社会関係、結婚や就職などの人間関係を結ぶ場面において差別や排除の対象とならないようにするためである。その中で、ハンセン病当事者家族は、「ハンセン病になった親族と親密な関係を築きたい(築き続けたい)」という思いと「差別などから身を守るためにできるだけ遠ざけたい」という思いの葛藤の間で苦しんできた。父親と異母姉が療養所の入所者だった男性(2004年の聞き取り時で55歳)[158]は、高校3年生の時に就職差別にあった。当時は、就職試験の際、戸籍謄本を受験する企業に提出する慣行があった。「嫌でも出てくるんですよ、親父の住所が(星塚敬愛園のあるところになっていることが)。もう、門前払いですね……」[159]と話している。さらに、「(異母姉が亡くなったとき)上のきょうだい(の口)から出た言葉は、「やっと死んでくれたか」です。「これでやっと大手を振って実家に来れる。ほっとした」って、実のきょうだいが言うんですから、……」[160]とも話している。

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 父親が菊池恵楓園入所者だった女性(2004年の聞き取り時で59歳)[161]は、母親から父親は「死んだ」と聞かされて育っている。結婚の際に戸籍謄本を見て、父親が存命していると気付いた女性は恵楓園へ面会に出かけたという。「“えっ、この人がわたしの親?”それっきり言葉もなかったです。――見た瞬間、はっきり言って悪いですけど、“化け物”って、そう思って帰ったんです」[162] と話す。女性の父親は後遺症が重い状態にあった。面会後に父親との親交が始まったそうだが、女性自身は父親が亡くなるまで冷たくあたったという。「(父親が)家に来ると、隣近所の目がある。どうしても、見られたら嫌。見られたら、もしもなにかあったら嫌っていうことが、ものすごく強かった。…(中略)…わたしとのアレ(=心の通い)は全然なかった。来ても、ただ「何しに来たのか」って……」[163]と話す。実の子どもでさえ、ハンセン病当事者に差別的な意識を持っている。差別的な意識を持たせているのは周囲の視線が原因である。周囲の差別的意識が女性に対し差別的な処遇をする。それが彼女にとって、「父親のせいで」に置き換わってしまい、冷たく当たってしまったのではないだろうか。

 以上のようにハンセン病当事者の家族というだけで差別の対象になる。差別の種類は、結婚や就職など多岐にわたるが、共通するのは「潜在的な感染者」という「レッテル」を貼られ、偏見や差別にさらされてきたことである[164]。その差別・被差別の構造は、今も変わっていない。ふとしたことがきっかけとなり、「むき出しの悪意」[165]が家族を襲う。結婚などの場で明らかになったり(されたり)、ふと戸籍謄本を見たことで隠していた事実が明らかになったりする。

 日本社会は、ハンセン病当事者家族たちにとって、自らの存在を明らかにし、声を上げることの難しい社会であり続けてきた。2016年に提訴されたハンセン病家族訴訟も、原告団の大多数は匿名だった。顔や名前を公表できない原告もいた。2016年裁判の原告共同弁護人である德田靖之弁護士は「匿名裁判であること自体が、社会がハンセン病問題に向き合っていないことを示している。差別や偏見は、今なお深刻だ」[166]と述べる。ハンセン病当事者家族の苦しみは現在進行形で続いている。「親族がハンセン病だった」という事実を隠さなくても生きていくことのできる関係性を、日本社会に住む人全員が考えていく必要がある。ハンセン病当事者やその家族が声を出していくことができるようになれば、それがハンセン病の差別が無くなった証拠なのではないか。療養所に納められている遺骨が全て家族の元へ帰れる日が来た時こそ差別が無くなった証拠と言えるだろう。

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9. 行政による差別

 今まで挙げてきた事例は、どちらかというと「一市民」による差別が多かった。では、行政など公務員の世界、ハンセン病当事者に対して「味方」となってくれるはずの存在は、差別的な処遇は行わなかったのだろうか。答えは「否」と言える。事例を挙げていく。

 事件は1998年に香川県庵治町で起こった。この年の7月に香川県庵治町では、新しく保健福祉センター内に入浴施設がオープンしていた。国立ハンセン病療養所大島青松園入所者の入浴施設の利用に際し、庵治町幹部は「風呂の利用は、通常の日ではなく特定の日[167]にしてはどうか」「入所者の利用後、湯の入れ替えや浴槽の清掃を行いたい」[168]と打診(提案)していたという。

 園側は町に対して、「どういう意図の発言なのか。らい予防法が廃止されたのに、町が差別や偏見を助長するようなことをするのはおかしい」と見解を求めた[169]。しかし、庵治町からの返答は無かったという。これに対して当時の町長は、「入所者を差別しての発言ではない。一般の人が嫌がるというより、後遺症のある入所者を気遣っての発言と思う。施設の利用を断ることはない」 [170]と話している。また、「“大島からも入りに来るのか”との声が町内にある」[171]ということを把握していた青松園側は住民感情に配慮し、「偏見が解消するまで、しばらく利用は差し控え」[172]ることを決定し、園内放送で浴場の利用自粛を呼びかけたという。青松園の入所者は、結局、一度も浴場を利用しなかったそうである。

 この入浴施設利用拒否事件ともとれる事例に対し、当時のハンセン病療養所の幹部格と法務局が述べているので、以下に引用したいと思う。

東北新生園事務長:「差別、偏見が残っている現状から言えば町の申し入れは入所者への配慮の結果であり、問題はない。ハンセン病に対する差別の問題は啓発活動などを通じ、時間の流れと共に徐々に解消されている」[173]

栗生楽泉園事務長:「とやかく言う立場にないが、入所者への偏見が払しょくされていない現状が改めて浮き彫りになったといえる。時間をかけた啓発活動が必要だが、入所者側に風化による解決を望む声もあり、難しい」[174]

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邑久光明園長:「偏見の存在が改めて顕在化した。「入所者のためを思って」というのは奇弁であり、これが最もたち(・・)の悪い差別。「私は違うが、住民に差別心がある」というのは自分の偏見を「住民」という漠然とした存在に転嫁した物言いだ」[175]

奄美和光園長:「こちらはあれこれ言える立場ではない。ハンセン病に伴う偏見、差別には長い歴史があり、どんな差別でもそうだが、根が深くいろいろな要素をはらんでいるので一言で述べるわけにもいかない」[176]

沖縄愛楽園長:「町や自治会の立場はどちらも理解できるが、やはり入所者が自由に入浴できる状態が理想。そのためには特に、歴史を知る入所者と同年代の人々との交流や啓発が必要。また差別をなくす戦いの主役は入所者であるという自覚が必要だ」[177]

琵琶崎待労院[178]院長代理:「町も入所者自治会も全体の考えを考慮しての判断だったのだろうが、早急に事を運びすぎた印象を受けた。しっかり話し合うべきだったのではないか。今回の件でハンセン病を正しく知ってもらう必要性を痛感。影響力を持つマスコミが恒常的に取り上げ、啓発の一翼を担ってほしい」[179]

菊池恵楓園長:「読売の記事[180]は安易に町を断罪する書き方でなく、重要な問題を提起したのではないか。これをきっかけにハンセン病の正しい知識を得たいと考える人が増えるだろうし、啓発活動を活発にしていく必要もある。/入所者の気持ちを一番よく知っているのは園の職員だが、内に閉じこもりがちな傾向もある。代弁者として積極的に社会に働きかけていく義務がある。/地方の場合、町長や町議が地元住民に大きな力を持っていることが多く、町長らが理解し、啓発活動に協力すれば住民への浸透が早く、効果的だろう」[181]

星塚敬愛園長:「啓発活動をさらにやらなくてはならないということに尽きる。園や入所者が地域住民と交流する場をもっと設けて、ハンセン病が歩んできた歴史を理解し、解きほぐしていかなくてはならない。/ハンセン病患者が受けてきた差別や偏見は病人など弱者がどのように取り扱われなければならないかという問題の一つの典型でもある。エイズ患者や障害を持った人々に対する我々の姿勢にもつながる問題。見過ごすことはできない」[182]

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法務局:「高松法務局は今後の啓発活動対策を立案するために今回の問題の事実確認調査を行うことを決めた。同法務局の久保勝利・人権擁護部長は「どこに問題があるのかを見いだしたい。今回の問題はハンセン病についての人権擁護の啓発活動を展開するのに重要な機会だ」としている」[183]

 療養所関係者もこの事件に対して様々な反応を示していたことが分かる。東北新生園事務長の発言はハンセン病当事者を守る立場にありながら驚きを与えるものであるが、栗生楽泉園事務長と奄美和光園長の発言はどこか他人事に聞こえる。どこの療養所でも起きていた可能性のある事態であるにも関わらずだ。

星塚敬愛園長の発言、法務局の発言は、啓発活動をさらに行うことの必要性を説いているものだ。このあとの出来事を知る私たちは、2003年の黒川温泉宿泊拒否事件を防ぐことができなかったと分かっている。この1998年のときの問題を機会とした対策が充分ではなかったということを意味している。

 1996年に「らい予防法」が廃止されたことで、地方自治体は責任を持って、住民・市民に偏見・差別を無くす啓発を積極的に行う立場にある。それにも関わらず、「偏見が解消するまで利用自粛する」としていた青松園の入所者が一度も利用できなかったのは、地方自治体の啓発活動がしっかりと機能していないことを示唆しているのではないだろうか。ましてや、療養所に暮らす「市民」に対して、利用の制限を遠回しに提案するような行政行為はもってのほかである。

(3)差別事例から見えたハンセン病法制の課題

 以上、ハンセン病当事者や当事者家族に対する差別的な事例を見てきた。年代が詳しく分からないものを除き、そのほとんどが、らい予防法廃止後、ハンセン病国家賠償訴訟(2001)判決後、もしくはハンセン病問題基本法の制定に伴う差別解消の啓発活動が行われている最中に起きている。

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 らい予防法が1996年に廃止された直後、「全国らい患者協同組合(全患協)(現:全国ハンセン病療養所共同組合(全療協)」が発効する「全患協ニュース」には「復権に向けて」という文章が掲載された。「私共の最大の悲願は…法の下の平等、基本的人権を確立することにあります。また、それとともに、国の責任において、入所者およびその家族に対する社会的偏見と差別を根本的に払拭するために積極的に努力をしてもらうこと」「本病に対する偏見や私ども及び家族に対する差別はいまもって社会に根強く存在しており…学校教育の中でまた一般市民に対し、ハンセン病に対する正しい知識の普及と差別撤廃のためのあらゆる努力の積極的推進」を国に要望している[184]。しかし、上記で事例として取り上げてきたように、分野や世代を問わず、差別が起こり続けているのが現状である。

 「黒川温泉宿泊拒否事件」のように、何か事件が起こると不特定多数の市民の差別意識が出てくるのは、社会や市民の中に「差別は良くない」という意識が広がっていない証拠ではないだろうか。この事件は、一般市民の「むき出しの悪意」によって、「被害者」と「加害者」の立場が入れ替わって見えるような経過をたどった。正しい知識を持つことによって、防ぐことができた事件ではないのか。メディアの「扇動」があり構造が複雑になっていたとしても、「一般市民」の「正義」によって、ハンセン病当事者の名誉が傷つけられたのは事実である。

 では、ハンセン病への差別・偏見の除去に何が不足しているのだろうか。再発防止検討会が療養所入所者に対し実施したヒアリングでは、「疾病を理由とする差別、偏見の克服への取り組み状況は、療養所の有無によって温度差がある」「地域に関係なく差別、偏見の克服への取り組みを進めてもらいたい」[185]という要望が明らかになっている。ハンセン病問題基本法では前文において「ハンセン病の患者であった者等が、地域社会から孤立することなく、良好かつ平穏な生活を営むことができるようにするための基盤整備は喫緊の課題であり、適切な対策を講ずることが急がれており、また、ハンセン病の患者であった者等に対する偏見と差別のない社会の実現に向けて、真摯に取り組んでいかなければならない」としている。しかし、地域連絡協議会の設置、人権相談体制の充実、差別解消に必要な人権教育の実施、差別に係る調査の実施などの規定は、2019年の法改正でも新設されず、施策の多くが行政の裁量に任されている[186] - 25 - ハンセン病に対する差別・偏見を除去し、克服する取り組みについては、自治体の間に激しい温度差や地域差が見られること。差別・偏見の除去に係る人権教育・人権啓発が必ずしも実効性のあるものとなっていないこと。差別・偏見の除去への各界の取組が不十分なこと。療養所退所者の社会生活に大きな比率を占める特定業務従事者(介護や福祉、医療関係者など)に対する教育・啓発・研修がほとんど実施されていないこと[187]。これらの問題も行政裁量に任されているために生じていると言っても良い。ハンセン病問題検証会議最終報告書は、ハンセン病差別・偏見の特性を次のように分析している[188]

ハンセン病差別・偏見の特性

  1. 国策によって作出、助長、維持された差別・偏見だということ
  2. この「国策としての差別・偏見」の作出、助長、維持に、医療者、宗教者、法律家、マスメデイア、その他、各界の専門家が作為または不作為という形で大きく関わっているということ
  3. これらの専門家の中でも、わが国のハンセン病医学、医療の中心に位置した専門医と、この専門医の誤った医学的知見が果たした役割は大きいということ
  4. )この「国策としての差別・偏見」が長年にわたって維持され、いわば日常化された結果、差別・偏見という「異常事態」に対して市民の側に感覚麻痺が見られるということ
  5. このように「異常事態」が日常化しているということ自体が、差別・偏見の正当化理由として悪用される可能性があるということ
  6. この「国策としての差別・偏見」は、「同情」論と表裏一体のものと作出、助長、維持された結果、無数の「差別意識のない差別・偏見」、「加害者意識のない差別・偏見」が生み出されているということ
  7. この「差別感のない差別・偏見」、「加害者意識のない差別・偏見」は普段は「寝た子」状態が多く、入所者の方々らが差別・偏見に甘んじる限りは「同情」の中に隠されているが、入所者らが権利主体として立ち上がろうとすると、この「差別感のない差別・偏見」、「加害者意識のない差別・偏見」に火がつき、燃え上がるということ

 

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 この分析によると、どうやら社会の中に「同情」意識や「加害者意識のない差別・偏見」が見られるようである。ハンセン病当事者は「弱い存在」「守ってあげている存在」であると「同情」の気持ちからも偏見・差別の意識が生じ、「弱い存在」であるために「同情」して療養所で「養ってあげている」にもかかわらず、ホテルからの謝罪を拒否するとは何事か。そのような気持ちが「差別文書」に繋がっていったのだろう。内田によると、ハンセン病当事者への強制隔離政策が継続された結果、加害者側だけでなく被害者側にも「同情」意識の浸透がみられると述べる。それは、当事者側の権利主体性を奪うことに繋がっている[189]。ハンセン病当事者も「同情」されるべき存在と自覚してしまっているということだ。

 また、「加害者意識のない差別・偏見」があることが、差別・偏見の除去を一層難しくしている。ハンセン病教育・啓発の場面で「ハンセン病当事者やその家族の人を差別指定はいけません」として、教育・啓発を受けた側が「差別はしません」と反応したとしても、差別・偏見の除去に繋がるかどうかは不明である。ハンセン病当事者を差別していない、人権侵害をしていないという意識が支配的である場合、このような教育・啓発では全く意味をなさない。「ハンセン病への差別・偏見を除去するにはどうするか?」という行動意識が生まれないからである。「ジブンゴト」として捉えられないと言い換えることもできる。加害者側の「加害者性の脱却」[190]を起こすことができないと、真の意味での差別・偏見の除去はできない。前述したハンセン病に関する2つの訴訟判決に立ち返ってみると、補償金を受け取るには、差別被害を受けたハンセン病当事者本人や家族本人が「声を上げ」「被害を受けたと証明」できる必要がある。しかし、今の日本には被害者が声を上げづらい状況にある。市民だけでなく、行政側、立法側にも「無意識の加害者性」は存在している。

現状、もはや啓発活動では、どうにもならない次元に到達しているのではないだろうか。ハンセン病の歴史や差別の除去に関して啓発活動が行われているにも関わらず、どうして差別的な事例が生じてしまうのか。啓発活動が意味をなさなくなるほど、日本の社会の中にはびこる差別的な意識はどのような過程を辿って生まれ、強固になっていったのだろうか。次章で、日本を含めた世界各国によるハンセン病政策の比較を通じて、この答えを探していきたいと思う。

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  1. 川﨑愛「ハンセン病療養所における優生手術」(流通経済大学社会学部論叢29巻2号、2019)pp.71-74及び石埼学「文化国家・憲法二十五条・ハンセン病者」亜細亜法学36巻1号、2001、pp.126-127。↩︎
  2. 川﨑:前掲88、p.72。↩︎
  3. 厚生労働省「らい予防法の廃止に関する法律(https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/hourei/8.html)」↩︎
  4. 森修一・阿戸学・石井則久「国立ハンセン病療養所における入退所動向に関する研究―1909年から2010年の入退所者数調査から―」日本ハンセン病学会雑誌88巻2号、2019、p.57。↩︎
  5. 田中:前掲26、p.130。↩︎
  6. 和田謙一郎「司法判断からみるハンセン病問題」四天王寺大学大学院研究論集11号、2017、p.53。↩︎
  7. 朝日新聞「ハンセン病訴訟判決理由〈要旨〉」(2001年5月11日夕刊)及び徳島新聞「鳴潮」(2019年6月1日朝刊)。↩︎
  8. 民法724条後段には、不法行為による損害賠償請求権は、20年を経過することで消滅する旨を規定している。↩︎
  9. 厚生労働省「ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話」(https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/hourei/4.html)。↩︎
  10. 平井佐和子「シンポジウム「司法における差別―ハンセン病問題と藤本事件―」」西南学院大学法学論集38巻1号、2005、p.87。↩︎
  11. 内田博文「ハンセン病国賠訴訟(熊本地判令1・6・28)について(特集ハンセン病家族訴訟をめぐって(1))」判例時報2439号、2019、p.313。↩︎
  12. 川﨑:前掲88、p.84及び石川勝夫「ハンセン病の歴史と問題点について(2)」社会保障477号、2018、p.35。↩︎
  13. - 28 -
  14. e-Gov法令検索「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」(https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=420AC1000000082)↩︎
  15. 八尋光秀「特集ハンセン病問題のこれまでとこれから」(ヒューマンライツ384号、2020)p.15。↩︎
  16. 朝日新聞「ハンセン病家族も差別受けた・国の責任は28日に判決」(2019年6月3日付朝刊)及び朝日新聞「「裂かれた絆」救済 識者、差別解消制度化訴え」(2019年6月29日付朝刊)及び松本聡子「戦後ハンセン病政策と家族の諸問題―家族訴訟を中心に」(佛教大学福祉教育開発センター紀要14号、2017)p.108。↩︎
  17. 松本:前掲102、p.108↩︎
  18. 黒尾和久「ハンセン病回復者の家族・遺族の人生被害をめぐって―熊本地裁判決を受けて考える」歴史地理教育909号、2020、p.60。↩︎
  19. 「LAW FORUM[ロー・フォーラム] ハンセン病元患者にも被害認定―熊本地裁判決国の隔離政策が生んだ差別認める」法学セミナー776号、2019、p.9。↩︎
  20. 臼杵大介「人生被害の回復へ残された課題―ハンセン病家族訴訟と報道」(新聞研究819号、2019)p.39。↩︎
  21. 母親がハンセン病患者だった鳥取県の男性が、国と県とに賠償を求め、一審の鳥取地方裁判所が2015年9月、行政の責任を認めながらも、被害を否定して請求を棄却した裁判。2018年7月に、二審の広島高等裁判所松江支部も一審判決を支持し、男性は敗訴。男性は最高裁判所に上告受理を申し立てた。↩︎
  22. 厚生労働省「ハンセン病家族国家賠償請求訴訟の判決受け入れに当たっての内閣総理大臣談話及び政府表明」(https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_05733.html)。↩︎
  23. e-Gov法令検索「ハンセン病元患者家族に対する補償金の支給等に関する法律(https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=501AC0000000055)」。↩︎
  24. 増田尚「ハンセン病家族に対する補償金制度の創設と今後の課題」人権と部落問題72巻6号、2020、p.17。↩︎
  25. - 29 -
  26. e-Gov法令検索:前掲109。↩︎
  27. e-Gov法令検索:前掲109。↩︎
  28. 増田:前掲110、p.18。↩︎
  29. e-Gov法令検索:前掲109。↩︎
  30. 親・子の配偶者および配偶者の親・子。↩︎
  31. 「同居」とは、発病から1996年3月31日までの間に日本において(日本に居住したことのない場合には、1945年8月15日までの間に台湾、朝鮮等の本邦以外の地域において)生活の本拠を同一にしていたことを意味し、休暇時の帰省等の一時的な滞在は含まない。――厚生労働省「ハンセン病元患者の御家族の皆様へのお知らせ~補償金の支給制度について」(https://www.mhlw.go.jp/content/000569231.pdf)。↩︎
  32. 祖父母・兄弟姉妹・孫の配偶者および配偶者の祖父母・兄弟姉妹・孫。↩︎
  33. 増田:前掲110、p.18。↩︎
  34. 増田:前掲110、p.18。↩︎
  35. 増田:前掲110、p.18。↩︎
  36. 国立ハンセン病療養所所長や裁判官経験者等。↩︎
  37. 増田:前掲110、p.18。↩︎
  38. e-Gov法令検索:前掲100。↩︎
  39. 社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会・ハンセン病回復者支援センター「差別禁止法を求めます―差別事例の調査から見えてくるもの(第3回)ハンセン病回復者と家族・遺族に対する差別の実態」ヒューマンライツ329号、2015、pp.28-29。↩︎
  40. 同上、p.29。↩︎
  41. 熊本県ハンセン病問題啓発推進委員会「熊本県ハンセン病問題啓発推進委員会報告書」(熊本県、2020)p.17。↩︎
  42. 社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会・ハンセン病回復者支援センター:前掲124、p.30。↩︎
  43. 福岡安則・黒坂愛衣「ハンセン病回復者の語り・家族の語り(第6回)小学二年にして生き方の決断を迫られる」世界918号、2019、p.284。↩︎
  44. - 30 -
  45. 朝日新聞「ハンセン病問題 子に正しい知識を」(2017年6月14日付夕刊)。↩︎
  46. 朝日新聞「「ハンセン病で骨溶ける」人権授業 児童に誤解」(2014年6月6日付夕刊)。↩︎
  47. 社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会・ハンセン病回復者支援センター:前掲124、p.30。↩︎
  48. 2011年3月に報告書公表。20歳以上の日本国籍の大阪市民を対象に、無作為抽出で実施し、約1000人の有効回答を得ている。↩︎
  49. 播磨俊子「元ハンセン病患者のスティグマと喪失体験に関する研究」(平成17年度―平成19年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書、2008)p.26。↩︎
  50. 朝日新聞「ハンセン病表現苦悩 アフガン舞台の市民人権劇」(2011年10月17日付朝刊)。↩︎
  51. 同上。↩︎
  52. 同上および社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会・ハンセン病回復者支援センター:前掲124、pp30-32。↩︎
  53. ハンセン病療養所に入所している熊本県出身者に、ふるさととの絆を深めてもらうことを目的に実施された。――熊本県ハンセン病問題啓発委員会「第1回熊本県ハンセン病問題啓発推進委員会資料3」(熊本県、2015)p.1。↩︎
  54. 在職期間:2000年4月16日~2008年4月15日。通算二期。↩︎
  55. 旅館業法(昭和23年法律第138号、令和元年6月14日公布(令和元年法律第37号)改正、令和元年12月14日施行)――e-Gov法令検索「旅館業法」(https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=323AC0000000138)。↩︎
  56. 財団法人日弁連法務研究財団ハンセン病問題に関する検証会議「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」(財団法人日弁連法務研究財団、2005)p.750、社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会・ハンセン病回復者支援センター:前掲124:pp.32-33、及び植山光朗「ハンセン病元患者の宿泊拒否事件の真相」地域と人権243号、2004、pp.7-8。↩︎
  57. - 31 -
  58. 熊本県「無らい県運動」検証委員会「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」(熊本県「無らい県運動」検証委員会、2014)p.264。↩︎
  59. 植山:前掲140、p.9↩︎
  60. 高木智子『増補新版 隔離の記憶―ハンセン病といのちと希望と』(彩流社、2017)p.75。↩︎
  61. 松本:前掲102、p.120。↩︎
  62. 挙げたものは一部であり、後に自治会によって「差別文書綴り」としてまとめられている。↩︎
  63. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、p.750。↩︎
  64. 同上、p.750。↩︎
  65. 植山:前掲140、p.8。↩︎
  66. 植山:前掲140、p.8。↩︎
  67. 吉田幸恵「〈病い〉に刻印された隔離と終わりなき差別「黒川温泉宿泊拒否事件」と「調査者」の関係性を事例に」立命館大学生存学研究センター報告14巻、2010、p.99。↩︎
  68. 社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会・ハンセン病回復者支援センター:前掲124、p.33。↩︎
  69. 荒井玲子「棄民と言われた人々―ハンセン病療養所の中に生きて」解放研究とっとり研究紀要16号、2014、p.55。↩︎
  70. 同上、p.56。↩︎
  71. 朝日新聞「ハンセン病の病歴、2割「話さず」」(2018年5月12日付朝刊)↩︎
  72. 社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会・ハンセン病回復者支援センター:前掲124、pp.33-34。↩︎
  73. 朝日新聞「ハンセン病歴告げた 息子の妻は家を出た」(2019年11月18日付夕刊)↩︎
  74. 70歳代の男性ハンセン病回復者が、ハンセン病と診断されたのは高校生のときである。ハンセン病の診断の後、ハンセン病療養所に入所したという。↩︎
  75. - 32 -
  76. 黒坂愛衣「“引き裂かれる”被害、“語れない”被害―〈ハンセン病家族〉たちの聞き取りから―」人権と部落問題68巻13号、2016、p.15。↩︎
  77. 同上。↩︎
  78. 同上、p.16。↩︎
  79. 同上、p.19。↩︎
  80. 同上、p.19。↩︎
  81. 同上、p.20。↩︎
  82. NHK解説委員室「「ハンセン病家族の『人生被害』と残された課題」(時論公論)(https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/370595.html)」(2019年07月3日配信)↩︎
  83. 金曜アンテナ「「ハンセン病」補償法成立。根強い偏見・差別の解消が課題 癒えることない原告の心の傷」週刊金曜日27巻46号、2019年11月29日、p.8。↩︎
  84. 臼杵:前掲106、p.39。↩︎
  85. その後、「特定の日」とは「施設の休館日」を意味していたことが明らかになる。↩︎
  86. 社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会・ハンセン病回復者支援センター:前掲124、p.34。↩︎
  87. 阿部安成「故郷の島―国立療養所大島青松園の記述をめぐる歴史の領分(2)―」滋賀大学経済学部Working Paper Series No.201、2013、p.33。↩︎
  88. 同上、pp.33-34。↩︎
  89. 社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会・ハンセン病回復者支援センター:前掲124、p.34。↩︎
  90. 同上、p.34。↩︎
  91. 阿部:前掲169、p.37。↩︎
  92. 同上、p.37。↩︎
  93. 同上、p.37。↩︎
  94. 同上、p.37。↩︎
  95. 同上、pp.37-38。↩︎
  96. - 33 -
  97. 琵琶崎待労院のみ、私立のハンセン病療養所である。↩︎
  98. 阿部:前掲169、p.38。↩︎
  99. この事件を真っ先に報道したのが読売新聞だったため。↩︎
  100. 阿部:前掲169、p.38。↩︎
  101. 同上、pp.38-39。↩︎
  102. 同上、p.39。↩︎
  103. 社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会・ハンセン病回復者支援センター:前掲124、pp.34-35。↩︎
  104. 内田博文「問われる国の責任、市民の責任―私たちは学び、変わっていかなくてはならない」ヒューマンライツ384号、2020、p.11。↩︎
  105. 同上、p.11。↩︎
  106. 同上、p.11。↩︎
  107. ハンセン病問題に関する検証会議:前掲140、pp.767-768。↩︎
  108. 内田:前掲185、pp.13-14。↩︎
  109. 同上、p.12。↩︎
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