健康で文化的な最低限度の生活を営む権利と司法審査

 単身で身寄りがなく、重い病気に罹患してしまい、労働に従事することが出来ず、貯金もないという場合、「餓死」という選択しか残されていないのだろうか。日本国憲法25条により保障されている「生存権」(「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」)の内容をめぐる考察に際して、まずその出発点におかれるべき問いは、このようなものとなるだろう。

 そして、この問いに対する回答は、当然のこととして「否」ということになる。憲法25条1項には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明文で規定されている以上、「単身で身寄りがなく、重い病気に罹患してしまい、労働に従事することが出来ず、貯金もない」人についても、憲法25条により生存権を保障された「すべて国民」に含まれるからである。

 本論文は、2020年という時点の状況を前提としながら、この生存権という憲法上保障された人権について、あらためて考察することを目的とする。

1. 社会権とは

 生存権は社会権のひとつである。それでは、社会権とは何か。憲法により保障される種々の人権の中で、最も基本的なものは自由権である。そもそも近代立憲主義が立ち上げられた18世紀末の近代市民革命では、国家権力による市民生活への介入を排除することにより、人権享有主体としての個人の尊厳が最大限尊重されることになると考えられた。そのために、「国家権力からの自由」としての「自由権」こそが、まさに近代立憲主義において観念された最重要の人権とされた。

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 このような見方の背景にあったのは、国家権力という存在が、国民の権利・自由に対して、最強・最大の抑圧主体であり続けてきたという歴史認識であった。しかし、19世紀、20世紀と時代が進むにつれて、様々な個人との関係において、「国家権力と同等、もしくはそれ以上に強力な権利抑圧主体」としての私人が登場することになる。

 18世紀末に立憲主義が確立されて以降、多くの事業者には「営業の自由」という人権が保障され、国家による介入のない自由な営業活動が展開されるようになった。そうなると、労働者に支払われる「最低賃金」や「労働環境」、「勤務時間」をめぐる規制が一切存在しない状態が続き、事業者にとっては有利な、そして労働者にとっては不利な社会が出来上がっていくことは、もはや必然であった。

 自由権の保障を通じて、国家権力の介入が禁止され、国民の自由な経済活動が展開されるようになったことにより、経済的格差が生じたのである。産業革命が進展し、資本主義が発達するにつれて、富める者はますます豊かになる一方で、貧しい者はますます貧しくなるという現象が広く見られるようになった。

 国家権力による介入(規制)がない状態で、自由な経済活動が認められたことにより、経営者、労働者の双方に「経済活動の自由」が保障されることとなった。しかし、「経済活動の自由」から必然的に導き出される「契約の自由」によって、経営者側は、支払われる労働賃金の金額や設定される労働時間の長さについて、自由に設定することが可能となった。自らが提示する労働賃金や労働時間の条件に同意する労働者とのみ契約を結ぶことが、自己の利潤を最大化するためには最も合理的な選択ということになる。

 これに対し、労働者は、経営者とは対照的に資本の蓄えもなく、賃金の対価としての労働の機会に恵まれない限り、日々の生活を営むことが困難という状況に陥ることになる。労働者にとっては、労働賃金の金額や労働時間などの労働条件をめぐって、自分の希望とは相容れないにもかかわらず、不本意な契約を結んで労働従事するほかに選択肢が存在しないという状況が生じることになる。

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 以上のような経緯から明らかとなるのは、近代市民革命の直後、自由権のみが保障されていた時代にあっては、「契約の自由」が文字通りに保障されていたのは経営者の側のみであり、労働者にとって、「契約の自由」という人権は、名目上のものにすぎなかったということであった。

 「国家権力は、国民の生活に対して一切介入してはならない」という、立憲主義確立期の考え方に対する修正が必要となったことから、自由権とは対照的に、国家権力による介入を求め、社会・経済的弱者に対する「人間らしい生活」を保障するための手立てを求めるための権利として「社会権」が生まれることとなった1

 以上のような経緯を踏まえて、社会権は「社会的弱者」を想定した権利ということになる。したがって、社会権について考察を行う場合は、どのような事例であっても、まず、「どのような社会的弱者が想定されているのか」が確認される必要がある。

 日本国憲法には、憲法25条により保障される「生存権」、憲法26条により保障される「教育を受ける権利」、憲法28条により保障される「労働基本権」など、複数の社会権が規定されている。「生存権」であれば「生活困窮者」、「教育を受ける権利」であれば「学校になど行かなくていいという思想を持つ保護者の下に生まれ、義務教育さえ受けさせてもらえない子ども」、「労働者の権利」であれば「団結して労働組合を結成しなければ、労働条件に不満があっても交渉のテーブルについてくれない使用者の下で労働に従事する労働者」という「社会的弱者」が、想定されている。

 「生活困窮者」が餓死することなく「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることが出来るようにするために「生存権」があり、「学校に行かせてもらえない子どもが最低限の義務教育を受けること」が出来るようにするために「教育を受ける権利」があり、そして、「使用者との1対1の関係では圧倒的に弱い立場にある労働者」が「使用者と対等に交渉に臨むこと」が出来るようにするために「労働基本権」が保障されている。このように、社会権は社会的弱者を保護するために、国に介入を求める権利なのである。

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2. 生存権とは - 補足性の原理

 それでは、本研究のメインテーマである生存権について、その権利の性質及び内容について整理してみよう。生存権を保障する憲法25条は、下記のように規定している。

憲法25条1項「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
憲法25条2項「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」

 これは、病気や失業のために労働に従事することができず、収入を得られない人たちにも、生活の保障を実現する重要な権利である。国は、これにそって、社会保障制度の整備を国の責務として進めてきた。現在では、生活保護法や国民年金法、健康保険法、児童福祉法など、社会保障に関するさまざまな法律が制定されている。

 憲法25条2項を参照すると、社会保障という言葉を見つけることができる。社会保障は、私たちの生活を最終的に保障する、セーフティネットの役割を担うものである。これは、25条1項の「生存権」を実現するための手段として位置づけられるものであり、「社会保険」と「公的扶助」、「社会福祉」2、「公衆衛生」3という4つの柱によって構成されている。本研究では、「社会保険」と「公的扶助」に焦点を絞り、確認しておきたい。

 社会保障の第1の柱である「社会保険」とは、「国民皆保険」、「国民皆年金」という原則(強制加入保険制度)の下、国民健康保険、国民年金、厚生年金、雇用保険などのように、国民により負担される保険料を財源とする、リスクに備えた相互扶助ということが出来る4

 これに対し、社会保険の第2の柱である「公的扶助」とは、「社会保険」のように保険加入の国民全員により負担される保険料を財源とするのではなく、税金を財源とするものであり、生活困窮者の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するための「最後の砦」ということが出来る。「扶助」とは、「力を添えて助けること」という意味である。国が税金を財源として、生活困窮者を「扶助」することを「公的扶助」と呼ぶ。日本では、公的扶助に関する法律として「生活保護法」が定められている。

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 しかし、税金を原資とする生活保護は、誰でも安易に受給出来るわけではない。「自助努力を尽くしても法定の最低生活水準に達していないこと」が給付の要件とされており、これを「補足性の原理」と呼ぶ。まずは自己責任の原理から自力で限界までの努力を尽くすことが前提とされている。それでも、どうしても生活出来ない場合に、補足的に生活保護が給付されるということである。補足性の原理について、生活保護法は下記のような原則を定めている。

  1. 稼働能力ある者は、それを優先すべきこと(生活保護法4条1項による「要件」)
  2. 資産価値ある物の処分(生活保護法4条1項による「要件」)
  3. 扶養優先(生活保護法4条2項では「要件」ではなく「優先」と緩やかな書き方になっている)

 扶養優先について、他の2つの条件とは異なり、「要件」とされておらず、「優先」という緩やかな書き方になっているのは、なぜなのだろうか。実は、1950年までは、扶養優先も「要件」として規定されていた。しかし、親族との関係というものは、遠く離れて生活していたり、何十年間も音信不通であったり、仲が悪かったりすることもあり、そのような場合に扶養に対する期待可能性が見込めないことが経験則から明らかになってきた。

 実際に、扶養優先が要件であったばかりに、他の2つの条件は満たしていながら生活保護を受給出来ず、餓死に追い込まれるという事例が少なからず生じている。そこで、民法877条2項は、「3親等内の家族」が「特別の事情あるとき」5には、扶養が優先される、そうでない場合には、生活保護の受給が認められると定めるに至っている。

3. 生活保護の内容

 都市部、単身の場合、生活保護による最低生活費は下記のような内容となっている(月額)6

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  • 生活扶助:70000円
  • 住宅扶助:53000円
  • 医療扶助:医療機関で受診した場合に自己負担ゼロ

 2019年度の予算は、生活保護費として3兆8000億円であった7。生活保護支給をめぐっては、その給付世帯数の多さが報道されることが少なくない。しかし、憲法25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という生存権保障のあり様をめぐっては、「生活保護捕捉率」をおさえる必要がある。

 生活保護捕捉率とは、生活保護基準を下回る経済状況にある世帯が、実際に生活保護を受給している割合を表すものである。すなわち、対象資格世帯数が602万世帯であったにもかかわらず、実際に受給したのは163万世帯にとどまっているという最新の調査結果(22%)から、日本では生活保護の受給がきわめて困難であること、対象資格世帯であっても、その4分の3は受給出来ていないことがわかる。

 このような事態は、憲法25条1項の「すべて国民は・・・健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という規定と矛盾している。なぜ、生活保護の受給は難しいのだろうか。以下において、その原因について考察してみたい。

 2000年代、政府は「構造改革」を進めた。「構造改革」とは、「経済不況問題を解決するために、社会構造を改革する」という意味の言葉である。構造改革においては、「小さな政府」という政策がとられる。政府の経済政策・社会政策の規模を小さくし、市場への介入を最小限にし、市場原理に基づく自由な競争によって経済成長を促進させようとする考え方である。このような方向性の中で、社会・経済的弱者保護の縮減が顕著となってきた。

 2009年、政府は、「生活保護費・国庫負担割合削減方針」を打ち出し、国の負担割合を4分の3から3分の2に削減するとともに、地方自治体に対して生活保護の抑制を要請した。これをうけて、地方自治体の生活保護窓口では、「水際作戦」(生活保護を申請しようとする生活困窮者を、「自助努力」の可能性を徹底的に追及するなどして行政が窓口で追い返すこと)や「硫黄島作戦」(給付決定の際に、「3ヶ月で必ず自立します」などという誓約書を書かせて、自立の可否を問わずに打ち切ること)がとられるようになった。

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 生活保護受給申請の窓口である福祉課では、「水際作戦」と「硫黄島作戦」という2つの「作戦」がとられることが少なくない。「水際作戦」とは、申請前に諦めて帰すよう促すものである。窓口相談の時点において「扶養照会」により親族の援助可能性を徹底的に追及し、あるいは、自助努力の可能性を厳しく追及するというものである。時には虚偽説明という違法な手段がとられることもある。「硫黄島作戦」は、一旦申請書を受理するものの、一定の期間の経過により(例えば3か月間)での自立を条件とし、支給を打ち切るというものである。しかし、生活保護受給者が3か月で自立することは困難である。この作戦名は、第二次世界大戦における硫黄島防衛戦に由来している。栗林忠道陸軍大将による持久ゲリラ戦は、水際防衛を放棄し、島全体を要塞化して、アメリカ軍を中に招き入れて叩くという戦術を採用した。これにより、圧倒的物量のアメリカ軍から1か月半も島を防衛し、アメリカ軍の被害が日本軍の被害を上回ったという稀有な例であった。

 水際作戦の事例として、例えば、神奈川県小田原市では、生活保護担当職員が、「生活保護悪撲滅チーム」、「保護なめんな」、「不正受給はクズだ」などと英語で書かれたジャンパーを、2007年から2017年まで着用していたことを挙げることができる。小田原市は、「職員がモチベーションを高めるために作成した」とコメントしたが、一体どのようなモチベーションを高めようとしたというのだろうか。

 21世紀以降、生活保護をめぐる補足性の原理はきわめて厳格に捉えられ、本来受給すべき生活困窮者の多数が受給出来ていないという現状があることを確認する必要があるだろう。

 それでは、憲法25条に権利として規定されているにもかかわらず、なぜ生存権は十分に保障されないのかという問題意識のもと、生存権の法的性格について、節を改めて学説を整理してみよう。

4. 生存権の法的性格をめぐる学説

 これについては、3つの学説が存在している。まず第1に挙げられるのが、「プログラム規定説」である。この学説によれば、生存権は具体的な権利ではなく、政治道徳的努力義務を掲げたものにすぎないとされる。 - 70 - 憲法25条1項における「健康で文化的な最低限度の生活」という文言はあいまいで抽象的であり、どのレベルの保護であれば合憲、違憲ということが出来ないとし、その保護の内容については、政府の裁量に委ねられていると解する立場である。「プログラム規定」とは、「具体的権利」とは異なり、その努力を国が怠っても特別の法的救済は予定されないものをいう8

 続いて第2の学説として、抽象的権利説を見てみよう。この学説は、生存権について、たしかに抽象的権利にとどまるため、憲法25条の条文のみを根拠として法的救済を求めることは出来ないと解するが、憲法25条の規範内容をうけた法律(生活保護法など)が制定されることによって、生存権は具体的権利になると解する。プログラム規定説と同様に、憲法25条のみを根拠として、生活保護レベルの低さをめぐり、国を訴えて改善してもらうことは出来ないとするが、生活保護法のような法律を根拠として、生存権は具体的権利となり、これによって生活保護レベルの低さをめぐり、国を訴えて改善してもらうことが可能と解する立場である9

 第3の学説として、給付請求権説を取り上げよう。憲法25条を直接の根拠として国を訴えることを認めない理由は、(1)「健康で文化的な最低限度の生活」という基準が抽象的かつ不明確であること、(2)生存権の立法による具体化には高度の専門的判断を必要とするため、法の番人たる裁判所にとっては専門外であり、合憲、違憲という判断能力を持たないこと、(3)生存権の具体的な保障のためには予算が必要だが、財政にも限界があり、その決定権限は財政民主主義のもとでは内閣および国会にあるため、裁判所は口出しすることが出来ない10、以上の3つである。

 しかし、(1)については、文言が抽象的であるとはいえ、「最低限度の生活水準」は、各種統計資料を用いて裁判上確定可能であること、(2)については、裁判所が持つ違憲立法審査権は、そもそも立法府や行政府が持つ専門的判断権をめぐって行使されなければならないものである以上、専門家の知見を得て判定することが出来るはずであること、(3)については、予算を障害的要素としてしまうと、金銭の支出を求めるすべての訴訟は提起出来なくなってしまうことになり、予算が憲法上の権利内容を決定するというのは本末転倒の議論であること、以上の観点から、憲法25条の条文だけで生存権の保障を求めることが出来るとする説である。

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 裁判所は従来、「プログラム規定説」の立場に立ってきたため、生存権をめぐる訴訟では、原告が敗訴することが少なくない。生存権をめぐるリーディング・ケースとなった「朝日訴訟」でも、最高裁は「プログラム規定説」の立場に立ち、原告である朝日茂氏を敗訴させている。しかし、このような考え方では、憲法25条で保障されている生存権の意義が、政府の考え方次第で伸縮自在となってしまうという観点から、憲法学界は「抽象的権利説」を通説として、政府や裁判所の考え方を批判している。

 次の節では、補足性の原理がどのように捉えられているのかについて、事例を参照しながら見ていきたい。

5. 朝日訴訟

 肺結核を患っていた朝日茂氏は、国立療養所に入所しており、生活保護法に基づいて、厚生大臣(東京慈恵会医科大学)の設定した生活扶助基準により定められた月額600円11および全部給付の医療扶助を受けていた。

 1956年、社会福祉事務所長は、35年間音信不通だった実兄を探し出し、月額1500円の仕送りを原告に仕送りするよう命じた。その後、原告の生活扶助を廃止し、仕送り金額1500円から日用品費600円を控除した残額900円を医療負担費として負担させる保護変更決定を行った。

 朝日氏は、月額600円という基準金額が、憲法25条およびこれをうけた生活保護法3条のいう「健康で文化的な最低限度の生活水準」の維持に足りないものとして提訴した。

 1審判決は、「健康で文化的な最低限度の生活水準」の具体的内容について、「特定の国における特定の時点において、客観的に確定することが可能」とし、厚生大臣の定めた保護基準はこれを満たしていないという判断を下した12

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 控訴審判決は、「健康で文化的な最低限度の生活水準」が「抽象的概念にとどまり、その確定に関する具体的判断は厚生大臣の裁量に委ねられている」と判断し、いかなる福祉政策を確立すべきかという問題は、立法・行政による政策的・専門的判断であり、財政決定権限を持たず、また適切な政策判断に必要な能力・情報も持たない裁判所は、あくまで立法・行政の広い裁量を尊重すべき」とした13

 最高裁判決は、「憲法25条は具体的権利規定ではない。保護基準は厚生大臣の裁量に委ねられる」とし、「ただし、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定するなど憲法および生活保護法の趣旨に反し、裁量の限界を超えた場合または裁量権を濫用した場合は、違法な行為として司法審査の対象となることを免れない」、「本件では、裁量権の濫用があるものとは到底断定することはできない」と述べて、原告敗訴を確定させた14

 しかし、1審判決における「最低限度の基準は決して予算の有無によって決定されるものではなく、むしろこれを指導支配すべきもの」という一節を肯定する渋谷秀樹の見解こそが、憲法学的に見れば妥当なものと考えられよう15。 1審判決では、月額600円の算定根拠となった保護基準の細目、数量および単価について個別具体的に検討を行い、「入院入所中の要保護患者にとって日用品として不可欠なものを2、3欠き、同じく基準消費数量は一部に不足するものがあり、しかも基準単価についても一部に安きに過ぎるものがある」という判断を示している16。これに対し、最高裁は、「健康で文化的な最低限度の生活水準」の具体的内容について客観的に確定することができないという前提に立脚し、現実の保護基準についても、全体として「著しく低い」か否かの審査にとどまっているが、保護基準の細目、数量および単価をめぐる算定方式について、その算定過程を審査することは可能であった筈だ、という指摘はきわめて重要なものと考える17。 

6. 「稼働能力の不活用」という行政の判断による生活保護給付停止-林訴訟2001年2月13日最高裁判決

 2015年12月、障害のために職場に定着することができずに生活保護を受給していた40代男性が、「自立して働くように」という就労指導に反し、就職をしなかった(出来なかった)ことから保護給付を停止された後に自ら命を絶つという事件が起こった(立川市生活保護廃止自殺事件)。 - 73 - 軽度の知的障害や発達障害があり、うつ病を患いながら路上生活に追い込まれていた男性は、生活保護の受給により、ようやく「住まいのある生活」を取り戻したが、就労指導に従わなかったため、「路上生活の経験があるので、保護を廃止してもなんらかの形で生きていけるのではないか」として給付を停止されたのであった。

 立川市の就労指導については、男性が本当に就労出来る状態であるかどうかを見極めることなく、画一的・形式的な就労指導を行ったのではないかという批判が向けられた。働きたくても働くことが出来ない場合、補足性の原理によれば「稼働能力の不活用」とされ、生活保護の受給が出来ないという事態を憲法25条に照らして考えると、憲法上保障されているはずの権利が保障されていない行政のあり方が浮かび上がってくる。このような事例にとって参考になる判例として、「林訴訟」と、これに続いた行政の動きを取り上げたいと思う。

 林勝慶氏(55歳)は、日雇い労働者として生計を立ててきたが、交通事故の後遺症により、両足にけいれんが生じるようになってしまった。しかし、全く歩行出来ないわけではなかったため、名古屋社会福祉事務所の指示により受診した医師の診断書には「軽作業であれば可」と書かれていた。行政は、この診断書を根拠に「稼働能力がある」とし、就職をしない林さんに対して「稼働能力の不活用」と責め、林氏の4度にわたる生活保護申請を却下した。

 「軽作業であれば可」という診断書にもかかわらず、足をひきずって歩行する林氏を雇ってくれる工事現場はなかった。どんなに頑張って求職活動をしても、仕事が見つからない日々が続いた。所持金は尽き、公園の水道で飢えをしのぐ野宿生活に追い込まれた。このような行政による生活保護給付却下処分をめぐり、憲法25条の生存権規定違反であるとして、林氏は市民団体の支援を受けながら名古屋地裁に提訴した。

 名古屋地裁判決(1996年10月30日)18は、「就労意欲があり、稼働能力活用の努力が認められれば、保護の要件を欠くものではない」とし、林氏に対する給付却下は違法であるという原告勝訴の判決が下された。ここで重要なのは、身体的なハンディキャップのために就職出来ない市民に対し、「努力」を要件として給付を認めるべきだと裁判所が判断したことである。いくら努力をして就職活動をしても仕事が見つからなければ、生活保護の給付がなければ生きていくことが出来なくなってしまう。そのような実態を客観的に判断し、給付すべきと判断したこの1審判決は、憲法学界では支持されている。

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 しかし、名古屋高裁判決(1997年8月8日)19では、「就労の機会がなかったとまではいえない、努力が不十分」として、原告である林氏は逆転敗訴してしまった。林氏は最高裁に上告するが、判決を迎えることなく死去してしまった。林氏を支援する市民団体のメンバーが訴訟承継人となって迎えた最高裁判決(2001年2月13日)も、名古屋高裁と同様の判断を行い、林氏の敗訴が確定した。ところが、最高裁判決の2年後、2003年に厚生労働省は姿勢転換し、「努力が認められれば生活保護の対象となる」、「稼働能力があることのみをもって生活保護の給付要件に欠けるということは出来ない」という立場を打ち出したのである。林氏は訴訟では負けてしまったが、厚労省による姿勢転換は、林訴訟後に見られた批判的な世論の喚起に影響を受けたものと考えられている。

 この2003年の厚労省の考え方を前提とすれば、「立川市生活保護廃止自殺事件」における立川市の給付停止処分は、違法となるのではないだろうか。生活保護をめぐる補足性の原理が、このような形で捉えられ、本来であれば受給対象である筈の生活困窮者に対し、生活保護の門戸が閉ざされてきたことを確認しておく必要があるだろう。

7. 中嶋訴訟2004年3月16日最高裁判決

 次は、中嶋訴訟20を取り上げることとしたい。生活保護の給付を受ける中嶋夫妻は、娘の高校進学のために学資保険21に加入した。これが、行政によって「資産価値あるもの」(補足性の原理(2)を参照)と認定され、解約指導が行われた。夫妻はやむなく中途解約し、解約払戻金44万円を得たが、行政はこれを「生活扶助」に充当するよう指導し、毎月受給していた18万円の保護費が9万円に減額されることになった。

 夫妻は、学資保険のための毎月3000円を捻出するために「最低限度の生活」をさらに切り詰め、何とか高校までは進学させてやりたいと考えていた。しかし、高校は義務教育課程に位置づくものではないため、当時は、高校進学費用は生活保護の対象外とされていた。

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 たしかに、生活保護法が制定された1950年においては、高校進学率は42.5%という数字であったが、現在の高校進学率は99%である。高校くらいは出ておかないと、社会に出て生活困窮者になってしまうという懸念を、中嶋夫妻が抱いたことは、子どもに対する愛情ゆえのものであった。そこで、生活を切り詰めて蓄えた学資保険のお金を全額取り上げられてしまったことをめぐり、「このような生活保護行政のあり方は憲法25条に違反する」として訴訟が提起された。これが「中嶋訴訟」である。

 中嶋夫妻の妻は1審判決前に死去し、夫も1審審理中に死去した。ただ一人残された娘が訴訟の承継人となって迎えた1審判決において、福岡地裁1995年3月14日判決では、「原告敗訴」判決が下された。「義務教育ではない高校進学費は生活保護によって支弁することは許されない、最低限度の生活におさまらない」という理屈が示された。憲法学界は、この1審判決に対して、「最低限度の生活をも切り詰めて学資保険に加入していたという事実をめぐる、裁判官の想像力が足りない」と批判を向けている。

 しかし、控訴審である福岡高裁1998年10月9日判決では、原告の逆転勝訴判決が下される。福岡高裁は次のように述べた。

 「義務教育ではない高校進学費用は、生活保護の対象外であるが、高校進学率の高さや、進学が自立に有用であることを考慮すると、最低限度の生活を維持しつつ高校進学のための努力をすることは、生活保護法の趣旨に反するものではない」

 最高裁2004年3月16日判決も、福岡高裁と同様の論理によって、原告の勝訴判決を下した。そして、2005年には、厚労省により、高校進学費が生活保護費として支給されるようになる。林訴訟でも、林さんが提訴し、世間に対して問題がアピールされたことによって、判決結果にかかわらず行政の対応が変化したことに触れたが、中嶋訴訟も同様であった。もし、林氏や中嶋夫妻が泣き寝入りし、訴訟で国を相手に戦うという選択肢をとらなければ、現在でも、「就職のための努力だけでは受給出来ない」とか「高校進学費を生活保護費から支出することは違法」という行政の指針が維持されていた可能性がある。

 憲法14条に性差別禁止規定があるにもかかわらず、依然として社会では女性に対する厳しい抑圧があるように、憲法の条文の中に人権が保障されていても、現実にはその保障が不十分であるということは、ありふれたことであると言える。これらの事例のように、顔と名前を出して、国の行政のあり方に疑問を覚えた当事者が提訴することによって、人権保障のレベルが高められていくということが認識される必要があるだろう。

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  1. 「社会権」という名称は、「社会的弱者の保護のために国家の介入を求め、全ての国民が社会の構成員として人間らしく生活出来ることを保障する権利」という考え方から由来するものである。 ↩︎
  2. 生計の困難な者および心身に故障ある者に対して必要な救護を与える制度。一般租税を財源とした金銭給付をなす公的扶助のほか、医療、住宅給付などを行う狭義の社会福祉からなる。生活保護法がその中核法であるが、児童福祉法、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、老人福祉法、母子および寡婦福祉法などがある。渋谷秀樹『憲法・第3版』(有斐閣、2017年)280頁。 ↩︎
  3. 国民の健康の保全および増進を行う制度。地域保健法、感染症の予防および感染症の患者に対する医療に関する法律、予防接種法、精神保健および精神障碍者福祉に関する法律、薬事法、食品衛生法などの他、環境基本法、大気汚染防止法などの環境関係立法もこれに含まれる。同上280頁。 ↩︎
  4. ただし、保険料だけでは経費をまかなうことができないので、税金も財源として用いられている。 ↩︎
  5. 同居している場合。 ↩︎
  6. 2020年4月のデータを基に計算した保護費の概算額。単身、都市部(東京都)在住、年齢は20~40歳の場合。 ↩︎
  7. そのうち半分が医療扶助に充てられた。 ↩︎
  8. 法学協会編『註解日本国憲法・上』(有斐閣、1948年)488頁。 ↩︎
  9. 橋本公宣『憲法・改訂版』(青林書院、1976年)392頁。これが憲法学界の通説とされている。 ↩︎
  10. 棟居快行「生存権の具体的権利性」長谷部恭男編『リーディングズ現代の憲法』(日本評論社、1995年)156頁以下。 ↩︎
  11. 現在の時価では約9000円に相当。 ↩︎
  12. 東京地判昭和35年10月19日行集11巻10号2921頁。 ↩︎
  13. 東京高判昭和38年11月4日行集14巻11号1963頁。 ↩︎
  14. 最判昭和42年5月24日民集21巻5号1043頁、判時481号9頁、判タ206号204頁。 ↩︎
  15. 渋谷、前掲註2、277頁。 ↩︎
  16. 渡部康行・宍戸常寿・松本和彦・工藤達朗『憲法Ⅰ・基本権』(日本評論社、2016年)377頁。 ↩︎
  17. 同上。 ↩︎
  18. 名古屋地判平成8年10月30日判タ933号109頁。 ↩︎
  19. 名古屋高判平成9年8月8日判時1653号71頁。 ↩︎
  20. 最判平成16年3月16日民集第58巻3号647頁。 ↩︎
  21. 満額50万円、掛け金は月額3000円という内容であった。 ↩︎
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